目的論と「あきらめる」:アドラー心理学と仏教②

時代を100年先行したといわれるアドラー心理学と、2600年前に説かれたものながら、現代科学の進みゆくところを先取りしたいわれる仏教。

どんな学問でも、真理を追究していくと通ずるものがあると感じますが、時代を先行したという共通点のあるアドラー心理学と仏教では特にその関連性の多さに驚きます。

アドラー心理学と仏教、両方の理解が深められ、実践できるところまで理解を落とし込む記事となることを目指して執筆していきます。

今回はアドラー心理学のベースとなる目的論と、仏教が語源の“あきらめる”についてご紹介します。

アドラー心理学の「目的論」

「今の自分を変えたい!」と思っている人は多いと思います。

「仕事がもっとできるようになりたい」「明るい性格になりたい」「異性にモテたい」など。

しかし、自分を変えたいとは思っても「自分にはもともと能力がないから」「根暗な性格だから」「異性を喜ばせるような話ができないから」と思ったり、「過去に変えようと努力したけれど、結局変わらなかったから」と思ったりして現状に止まっているという人が非常に多いでしょう。

「元々こうだから(過去に変えようとがんばったが)、今も自分はこういう状態なんです。だから、今の自分を変えることはできません」という考えになっています。

それは「原因論」と言われ、過去志向の考え方です。
原因論は以下のように言われています。

過去の原因が現在に支配的な影響を及ぼす[過去志向]

見方を変えればあなたはもっと生きやすくなる マンガでやさしくわかるアドラー心理学,p23

過去志向の考え方では、これまで自分を変えようと思って努力したけれど変わらなかった だから、これからも自分を変えることは無理、と現状からの脱却ができなくなります。

「嫌われる勇気」でもアドラー心理学に精通する哲人がこう警鐘を鳴らしています。

われわれは原因論の住人であり続けるかぎり、一歩も前に進めません。

第一夜 なぜ「人は変われる」なのか 嫌われる勇気p,28

この過去志向の「原因論」に対し、アドラー心理学の見方は未来志向の「目的論」です。

目的論は以下のように定義されています。

人間の行動には目的がある……過去の原因ではなく、未来の目標を見据えている人間の行動には、その人特有の意思を伴う目的がある。

アドラー心理学の全体像をつかむ マンガでやさしくわかるアドラー心理学,p23

過去が未来を全く規定しないわけではなく、過去の未来への影響はゼロではありませんが、あくまで私たちの未来は現在の選択によって生み出されるのですね。

だから「過去に自分を変えられなったから、この先も変えられないだろう」と思うのは言い訳だと言われます。現在の選択次第で、自分は変えられるのです。

「嫌われる勇気」でもアドラー心理学の理論に疑いを持っている青年と、先の哲人との間で、こんなやり取りがあります。

青年 あくまでも「人は変われる」を前提に考えよ、とおっしゃるのですね?

哲人 もちろんです。われわれの自由意志を否定し、人間を機械であるかのように見なしているのは、むしろフロイト的な原因論なのだと理解してください。

第一夜 過去に支配されない生き方 嫌われる勇気p,38

では、不平や不満を抱きながらも、どうして私たちは現状を変えられないでいるのでしょうか。それは現状を変える勇気がなく、変えられない現状を心地よいと感じてしまっているのですね。

 人は、いろいろと不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのです。

第一夜 人は常に「変わらない」という決心をしている 嫌われる勇気p,52

「変わりたい」と思いつつ、現状の心地よさに止まっている。でも内心は不満を抱えているのでは、本当の人生を歩んでいるとはいえないのですね。

一歩踏み出すには不安を乗り越える「勇気」が必要です。「幸せになる勇気」が足りていないのですが、その勇気があれば理想の自分へと着実に近付いていきます。まさに目的論は未来志向の考え方ですね。

仏教の“あきらめる”

それでは仏教は「過去志向」でしょうか。それとも「未来志向」なのでしょうか?

仏教でもアドラー心理学と同じ「未来志向」です。

あきらめる、という言葉がありますよね? “いい加減な状態で放置する” “ごまかす” といった意味で今日使われている「あきらめる」の語源は実は、仏教にあります。

そう聞くと「現状を変えるのもあきらめてしまうのなら、仏教もあきらめ主義で過去志向ではないか」と思われるかもしれませんが、今日使われている「あきらめる」と仏教本来の「あきらめる」の意味はまるで違います。

「あきらめる」の語源になった言葉は「諦観(たいかん)」といいます。「諦」は梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理・道理を意味します。

なので諦観とは「真理・道理をあきらかに観る」ということなんですね。

ここで真理とは、現在は過去の選択の積み重ねによってつくられた、ということです。仏典にはこう書かれています。

過去の因を知らんと欲すれば、其の現在の果を見よ

過去の選択は変えられないので、現在受けている結果は変えられませんが、未来はこれからの選択によって決まります。これからの選択次第でどうにでも変わるのですね。これを仏典には、

未来の果を知らんと欲すれば、其の現在の因を見よ

と書かれています。

だから「真理・道理をあきらかに観る」というのは、今の自分に不平・不満を抱えているのは過去の選択によるものであり、選択に誤りがあったのならその誤りをまず反省する。しかし、これからの自分はこれからの選択次第でどうにでも変わるので、過去の選択の誤りの反省を生かし理想の自分に向かっての選択をしていくべき、ということですね。

過去の選択の誤りを反省せずごまかして、理想の自分に向かう選択も放棄してしまうような今日の「あきらめる」とは全く違い、未来志向の考え方が仏教にも説かれているのですね。

まとめ

時代を先行したアドラー心理学も仏教も、その根底は未来志向の考え方であり、無限の進歩・向上が促されている教えだとわかります。心がけとこれからの選択次第で不平・不満を抱えつつも一歩踏み出す勇気のない現状を脱し、理想の自分へと近付けるのですね。

 

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