修復不可能な人間関係を生む「権力争い」と「忍辱」という対処法:アドラー心理学と仏教⑤

友達でも、恋人でも、結婚相手でも、上司でも、自分に対して怒りの感情を向けてきた相手にあなたはどう接しているでしょうか。

感情的になっている相手に理屈は通用しませんから、ついこちらも感情的になって相手を打ち負かせようとしてします。しかしそれでは、事は一時的におさまったとしても、更なる悪い事態を引き起こし、やがてはあの相手との関係が修復不可能になってしまうのです。

怒りの感情に怒りでぶつかってしまうと、なぜやがては修復不可能な関係をも招いてしまうのか。その仕組みと対処方法について、アドラー心理学と仏教の観点からお話していきます。

怒りの感情を向けた相手は「権力争い」を挑んでいる

相手が怒りの感情を向けてきたら、私たちはどう対処すればいいのでしょうか?

「嫌われる勇気」に次のような青年と哲人とのやり取りがあります。

青年 いくら先生だって、さしたる理由もなく罵倒されたら腹が立つでしょう?

哲人 立ちません。

青年 嘘をついちゃいけません!

哲人 もしも面罵されたなら、その人の隠し持つ「目的」を考えるのです。直接的な面罵にかぎらず、相手の言動によって本気で腹が立ったときには、相手が「権力争い」に挑んできているのだと考えてください。

第二夜 権力争いから復讐へ 嫌われる勇気p,102

相手が怒りの感情をぶつけてきたとき、相手は「権力争い」を挑み、相手を打ち負かすことで自らの力を証明しようとしているのです。相手はあなたに勝つことを目的に怒りを向けてきたのですね。

もしそんな理不尽にも思える怒りを向けられたら、どう対処しますか?

青年はというと「売られた喧嘩を買えばいい。だって、悪いのは相手なのですからね。そんなふざけた野郎、思いっきり鼻っ柱をへし折ってやればいいのです。言葉の拳でね!」 青年、なかなか過激ですね。

ところが、それで自分が言い争いに勝ったとしても、権力争いはこれで終わらないのです。

「権力争い」から「復讐」へ

権力争いで戦いに敗れた相手は次の段階に入ります。それが「復讐」の段階です。

いったんは引き下がっても、相手は別の場所、別の形で、なにかしらの復讐を計画し、あなたに報復しようするのです。怖いですね。

そうなっては、自分も常に報復行為に怯えることになってしまいます。そして対人関係が復讐の段階にまでなってしまうと、当事者同士での関係を修復するのは不可能になってしまいます。

だから、哲人いわく「権力争いを挑まれたときには、絶対に乗ってはならない」

自分の誤りを認めること、

謝罪の言葉を述べること、

権力争いから降りることが先決なのですね。

いや、相手が理不尽な怒りを起こしているのだから、誤る必要などない。謝ったら負けだ、と思われるかもしれません。

しかし、本当の負けとは、権力争いに挑んで感情的になり、本当に大事な目的を見失ってしまうことです。感情的になり、正しい判断が下せなくなり、事態の悪化を招くことこそ「負け」の姿であることが教えられています。

青年 勝ち負けにこだわっていると、正しい選択ができなくなるわけですね?

哲人 ええ。眼鏡が曇って目先の勝ち負けしか見えなくなり、道を間違えてしまう。われわれは競争や勝ち負けの眼鏡を外してこそ、自分を正し、自分を変えていくことができるのです。

第二夜 非を認めることは「負け」じゃない 嫌われる勇気p,108

「忍辱」の実行こそ、向けられた怒りへの最良の対処法

アドラー心理学の「権力争い」の箇所を読み進めていると、自ずと「負けている 人を弱しと思うなよ 忍ぶ心の 強きゆえなり」という歌を思い出しました。

これは仏教の「忍辱(にんにく)」の大切さを教えられている言葉です。

忍辱は意味は以下のようなことです。

仏教においては、さまざまな苦難や他者からの迫害に耐え忍ぶことを忍辱(にんにく)という。

忍耐 – Wikipedia 忍耐 - Wikipedia

辱めを忍ぶ、ということで、今日使われている「忍耐」と同じ意味ですね。

歌の話に戻すと、「負けている人」というのは「怒りの感情を向けられて、謝っている人、権力争いから降りた人」と言えます。

そんな人を見ると、あの人は人間的に弱い人なんだ、と思われるかもしれませんが、そうとは言えません。

「忍ぶ心の強さゆえなり」で、その人は正しい選択をするために、自分の大事な目的を見失わないために耐えているんだ。忍辱をしているんだ。傍から見れば、相手に打ち負かされている弱い人に見えるかもしれないけれど、感情的になることを避け、自分にとって大切なものを守ろうとしている人間的に強い人なんだ、ということを教えているのですね。

怒りの感情をむき出しにしている人は、周りの人を屈服させ自分がいかにも強い人間だと思われるかもしれません。しかしそれは一時的で、やがた自分にとって正しい選択ができなかったことを後悔してしまうことになるでしょう。

まとめ

相手に怒りを向けられたときこそ、自分にとって正しい選択ができるよう、権力争いから降り、感情的にならないことが大切です。

仏教ではそれを「忍辱」と教えられ、実行がおおいに勧められています。

ぜひ忍辱を実行し、守れるべきものを守れる本当に強い人間を目指したいですね。