“劣等感”を持つのは普通?異常? アドラー心理学に学ぶ 劣等感を力に変える方法

「劣等感」という言葉はどなたも聞かれたことがあると思います。人と比べて環境や能力が劣っている、と感じることですよね。

「テストの点数があの人より悪かった」ときとか、「あの人の家庭は裕福だなあ。それに比べて自分が住んでいる家ときたら…」と思ったときなどに劣等感を抱きますよね。

そうすると、
「才能や環境に恵まれている人は劣等感を抱いていないのではないか」
「自分は劣等感を抱いてばかりで、ダメな人間なんです」と思われるのではないでしょうか。

しかし、自己啓発の父 アルフレッド・アドラーは劣等感について以下のように語っています。

あなたが劣っているから劣等感があるのではない。
どんなに優秀に見える人でも劣等感は存在する。

小倉広(2014). 「劣等感に関するアドラーの言葉」 『アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉』 ダイヤモンド社

アドラー心理学では劣等感はその人特有のものではなく、誰しもが劣等感を抱えていると教えられています。たとえ家庭が裕福で容姿端麗、才能に恵まれているような人であっても劣等感はあるのです。

誰しも劣等感を抱くとはどういうことなのでしょうか? 今回はそれについて掘り下げていきます。

自分が劣っていると思えば劣等感になる

アドラー心理学でいう劣等感を理解するのには、まず「劣等性」について知る必要があります。

「劣等性」とは、具体的事実として劣っていることをいいます。たとえば「背が低い」。日本の成人男性の平均身長は約171cmなので、身長160cmの人は具体的事実として「背が低い」ことになりますね。ほかにも「胃腸が弱い」とか「家庭が貧しい」などが劣等性にあたります。

対して劣等感は自分が劣っていると「主観的に思う」ことです。ある事柄を劣っていると思うかどうか、それに対する劣等感を持つかどうかはあなた自身によるです。だから、劣等性のあるものに対し劣等感を持たないこともありますし、反対に劣等性のないものに対し劣等感を抱くこともあるのですね。

劣等性がないのに劣等感を抱く例として、ある女性は明らかに誰が見ても「やせている」のに、その女性自身が「太っている」と思えば、女性は自分の体型に対し劣等感を持っていることになります。

見た目がとてもスリムなのに、なぜかダイエットに励んでいる女性は周りにいないでしょうか。周りから見れば「あんなにやせているのにダイエットして大丈夫?もっと食べたほうが健康的でいいのに」とか思いますが、その女性は体型に劣等感を抱いているのですね。

では、そんな女性はいったい何と比較して劣等感を持っているのでしょうか。

優越性の追及による健全な劣等感

スリムな体型ながらダイエットに励む女性の比較対象は「理想の自分」なのです。

人間には誰しも「理想の自分になりたい」「理想の自分に近付きたい」という心があるとアドラー心理学では教えられています。これを「優越性の追及」といいます。

女性が「奈々緒に負けないくらいのモデルのような体型になりたい!」と思っていれば、現在の体型が劣等感になるのですね。

反対に「この人はもう少しやせた方がいいのでは」と周りから思われている人があったとしても、その人が自分の体型を普通だと思っていれば劣等感にはならないのです。

人は優越性を追及し、理想の自分を掲げて現状と比較しているので、誰しもが劣等感を持っていることになるのです。劣等感と聞くと、どうしてもマイナスなイメージがあり、持ってはいけないもののように感じてしまいます。しかし、劣等感をバネにして人は努力をし、理想の自分に近付いていけるのですね。

アドラーは劣等感を抱くこと自体は健全であると言っています。

劣等感を抱くこと自体は不健全ではない。
目標がある限り劣等感があるのは当然なのだ。

小倉広(2014). 「劣等感に関するアドラーの言葉」 『アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉』 ダイヤモンド社

劣等感と劣等コンプレックス

上記のように、劣等感を抱くこと自体は不健全ではありません。むしろ、劣等感があるからこそ、それを現状打破する力に変えて私たちは目標に向かって進むことできるのです。

現状に満足してしまっては、より大きな目標を達成しようと努力することがなくなってしまうのですね。

ところが、私たちはその劣等感をバネにして努力するどころか、劣等感を目標達成に向かわない言い訳にしてしまうことがあります。これを「劣等コンプレックス」と言われます。

コンプレックスという言葉もよく使われています。学歴コンプレックスや身体的コップレックスなど、劣等感と同義語で使われていることも多いのですが、アドラー心理学では劣等感とコンプレックスとを明確に区別して使っているのですね。

劣等コンプレックスは劣等感を言い訳にして目標達成に向かわないことで、

  • 「背が低いからモテない」
  • 「学歴が低いから成功できない」
  • 「親の遺伝のせいで勉強できない」

などと言うことです。

劣等感を持つことは健全であるのですが、それを言い訳に使ってしまうと不健全であると言わざるを得ません。なぜなら背が低くてもモテる人もいますし、高卒で社会的に成功している人もいます。親の遺伝まで持ち出したら、単に勉強したくないことへの言い訳以外のなにものでもありません。次回の記事で詳しく述べますが、自分にとって都合のいい因果関係を構築し、努力したくない自分を正当化してしまっているのです。

アドラーは以下のように言っています。

劣等感を言い訳にして人生から逃げ出す弱虫は多い。
しかし、劣等感をバネに偉業を成し遂げたものも数知れない。

小倉広(2014). 「劣等感に関するアドラーの言葉」 『アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉』 ダイヤモンド社

劣等感を目標達成の力に変え、偉業を成し遂げる

劣等感をバネにして偉業を成し遂げた歴史上の人物はたくさんいます。むしろ、それなくして成功した人というのはいないのではないでしょうか。

偉業を成し遂げた人として、二宮金次郎尊徳を紹介します。

二宮尊徳といえば、薪を背負い歩きながら本を読んでいる銅像で有名な人ですよね。昔はどの学校にも設置されていましたが、最近ではあの銅像を撤去する学校が増えてきているそうです。それは「歩きながら本を読むのは危険」だからだそうな。現代では「歩きスマホ」が問題になっており、二宮尊徳像が「歩きスマホ」を連想させるということで撤去に拍車がかかりそうですね。

確かに歩きながら本を読むのは危ないですが、それは小さいころから働きながらでも勉強時間を捻出するために尊徳が取った行動であり、人間にとって大事な「勤勉さ」の象徴であったのです。本質が理解されていないのに撤去されているのなら悲しいですね。
(ちなみに、薪をおろし石に腰掛けて本を読む二宮尊徳像は設置されているそうで、安心しました笑)

話がそれましたが、尊徳は生い立ちから苦境を迎えます。貧しい家の生まれで、幼少のころから父母の手伝いをすることになりました。

不幸にも14歳でお父さんを亡くしてしまい、残されたお母さんを助けるために少しの時間も無駄にすることなく働きました。

そのお母さんも16歳のときに失ってしまい、おじさんのところに身をよせることになります。

おじさんの言いつけを守り、朝・昼は一生懸命働きました。夜になってようやく勉強時間を確保することができ、尊徳は本を読み、字を習い、算術の稽古に励みました。

相次ぐ不遇を言い訳にせず、時間を惜しんで努力を重ねる

夜に勉強をするには明かりがいるため、油が必要になります。ところが、おじさんがある日勉強のためにわずかな油も使うことを禁じてしまったのです。

やむなく勉強を中断した尊徳でしたが、それで勉強を放棄しませんでした。荒れ地を開墾してアブラナの種をまき、自分で菜種油をつくったのです。その油をつかって尊徳は夜にまた勉強できるようになりました。

しかし、またしてもおじさんの横槍が入りました。夜の貴重な勉強時間を家の仕事に当てるように言われてしまったのです。そんな不遇にも尊徳は不満にも思わず夜も懸命に家の仕事をし、夜中になって勉強を開始したといいます。さらに少しでも勉強時間を捻出しようと薪を売りに行く道中でも勉強するようになりました。その薪を背負って歩きながら本を読む姿が銅像となったのですね。

そんな不遇の連続であれば、それを言い訳にして努力することを放棄してしまいかねません。仕事をして生きるだけでも大変であり、勉学まではとてもできないと思ってしまいます。

しかし尊徳は「貧しい家に生まれ、勉強時間の確保が難しい。しかし、今勉強をしなければもっと勉強時間を取れなくなり、一生を無学のまま過ごしてしまう」と、不遇な環境だからこそ懸命に努力することを誓い、信念を貫いて数々の偉業を達成したのですね。

このような、自分に与えられているもの(身体的特徴や家庭環境、遺伝など)は変えられないものと認めた上で、目標達成に向かって進んでいくことを「自己受容」とか「肯定的なあきらめ」といわれます。

「諦める」の本来の意味

仏教に「諦観(たいかん)」という言葉があります。

諦とは真理という意味で、諦観とは「真理を明らかに観る」ということです。この「アキラカニミル」が短くなって「アキラメル(諦める)」という言葉になったといわれます。

諦めると聞くと、まさに劣等感を言い訳に努力することを放棄するという意味で使われていると思います。「目標達成をあきらめる」とか「夢をあきらめる」とか。それって、アドラー心理学と仏教でいわれていることがまるで反対じゃないか、と思われるかもしれません。

先ほど「肯定的なあきらめ」という言葉を紹介しましたが、アドラー心理学について書かれたベストセラー『嫌われる勇気』でも青年が「あきらめ」について悲観的に捉えているところがあります。

青年 「肯定的なあきらめ」には、どこかペシミスティックな、悲観的な響きがありますね。こんなにも長い議論を重ねてきた結果、出てきた言葉が「あきらめ」だなんて、あまりに寂しすぎます。

哲人 そうでしょうか? あきらめという言葉には、元来「明らかに見る」という意味があります。物事の真理をしっかり見定めること、それが「あきらめ」なのです。悲観的でもなんでもないでしょう。

岸見一郎・古賀史健(2014). 「信用と信頼はなにが違うのか」 『アルフレッド・アドラー 嫌われる勇気』230pp. ダイヤモンド社

哲人が語っている通り、今日使われている「諦める」と、元来(仏教本来)の意味とはまったく違います。180度違います。仏教本来の意味は「真理を明らかに観る」ことで、劣等感を言い訳にして努力をしないどころか、現状を明らかに見て自己受容し、目標達成に向かって努力することなのですね。

だから、本来のあきらめ主義とは、劣等感をバネにして無限の努力・向上・進歩が促されるものなのです。この点において、アドラー心理学と仏教は共通しているのですね。

劣等感について正しい認識を持ち、それを力に変え、目標へ進んでいきたいですね。

まとめ

  1. 「劣等性」とは、具体的事実として劣っていること。
  2. 「劣等感」は、自分が劣っていると主観的に思うこと。ゆえに劣等性が劣等感になるとは限らない。
  3. どんな人も「優越性の追及」があり、誰しも劣等感を抱えている。
  4. 劣等感を抱くことは不健全ではなく、目標達成の力に変えられる。
  5. 劣等感を言い訳に目標達成に向かわないことを「劣等コンプレックス」という。
  6. 劣等感は健全であるが、因果関係を自分に都合よく構築し努力を放棄した劣等コンプレックスは不健全である。
  7. 「自己受容」と「肯定的なあきらめ」をして、劣等感を目標達成の力に変え、偉業を成し遂げた人物は多い。
  8. 仏教でも「諦観」という言葉があり、「諦める」の語源である。
  9. 仏教本来の意味の「諦める」は、現状を分析した上で劣等感をバネにし努力することであり、現在使われている意味とは180度異なる。
  10. 仏教とアドラー心理学はともに、あきらめ主義である。

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