心の奥底の虚しさに苦悶した20年間と、解明した仏教との出会いについて

はじめまして。20代仏教の管理人の「ゆげ」と言います。

人によく仏教を学んでるというと「何で学んでるの?」と質問されることがあるので、今回は僕と仏教の出会いについて、書きたいと思います。詳しく話すと半日コースなので興味ある人は会いましょう 笑

仏教を学べて本当によかったということを話したいのですが、短い時間だとただの変な人に見られてしまいますからね。じっくりお話ができればと思います。

よく分からない虚しさに押しつぶされていた18年

僕は、親がいない、小学生ながらにしてホームレスだったとか、そういった過去はありません。あるいは身体に障害をもっていて、それで苦しんでいたこともありません。幸いにも五体満足です。また両親も健康でそれなりに裕福です。それなりに喧嘩もしましたが、虐待を受けたこともありません。友達も全くいないわけではなく、それなりにいました。一般的には幸せな環境だったと思います。

しかし、両親や兄弟にも、そしてどんなに仲のいい友だちにも打ち明けることの出来ない大きな悩みがありました。

それは「とにかく虚しい」ことでした。何をしていてもあらゆることが虚しく感じられてしまうのです。

本来楽しいはずの修学旅行。小学生の時は京都に行きました。タクシーで各班で自由行動をして、おすすめのお好み焼きを食べたり、マイナーな観光スポットに行ったりして、楽しい時間を過ごしていました。しかし、ある時突然やってくるのです。

「で、これがいったい何になるというのだ?」

この問いがくると今まで楽しかったこともすべて、灰色になり、虚しくなるのでした。小学生6年の当時のアルバム写真を見ると、ひどく冷めた目で歴史的建造物を見ている自分がいました。小学生にしては大人びているとも言えなくもないですが、当時の僕はただ戸惑いしかありませんでした。制御したくても制御できない感情で、どう処理していいか分からなかったのです。

この虚しさは中学生になっても高校生になっても続きます。むしろ色んな楽しみを知っていくので、その反面この虚しさは深まるばかりでした。そうすると虚しさがくることを予期できるので、カラオケで楽しい時間を過ごした後ではなく、カラオケをする前から虚しさを感じてしまいます。そんな状況では何もかもが楽しめず、ひたすらインターネットやゲームに逃げていました。勉学にも当然集中できず、大学には合格できず、浪人の道を選びました。

自分と向き合った浪人時代

浪人生活に入り、何もしてこなかった自分に危機感を覚えました。人として終わっているなと。なにせこれまで読書もろくにせず、グータラやってきたわけですから当然です。手始めに図書館に行き、名著と呼ばれるような小説を読み始めました。夏目漱石や芥川龍之介や森鴎外などなど。ゆっくりではありましたが、のめり込んでいきました。今まで知らなかった古典の教養に触れることが楽しかったのです。それに昔の人も自分と同様に悩み苦しんでいたのだと知り、逆に勇気づけられました。

そして、それと並行して日記をとるようにしました。浪人時代ですから、友達と喋ってばかりいるわけにはいきません。かといって100%勉強に集中できるわけではありません。何か語りたくなるのですが、ぶつける相手は自分しかありません。そこで今考えてることや課題などを日記に毎日書くことにしました。これがすごくよかった。

「で?それが何なの?」という心の声が、自分の浅い考えを深堀りしていくのです。日記を書いていけばいくほど、自分の考えが深まっていくのを感じました。その時読んでいた芥川龍之介や太宰治などの影響もあって、生きる意味や人間の存在意義について考えふけるようになりました。漫然と虚しさを感じていた時から、その虚しさに向き合い分析するようになったのです。

そういったことに面白みを感じ、元々理系だったのですが、大学では哲学を学ぼうと決心したのでした。

そして仏教と出会い、虚しさは解明される

そして1年の浪人生活を経て、無事大学に合格することができました。哲学含め色々と学べる環境にあり、満足でした。

哲学といっても色々ですが、西洋哲学の基礎といったものを、総ざらい学んでいきました。古代ギリシア思想からニーチェ、実存主義などなど。結果分かったのは、西洋哲学に求めている答えはないということでした。西洋哲学は過去の歴史の否定、常に変質していきます。答えという答えにたどり着けないのです。そして、西洋哲学者の末路が自殺や発狂といったことも悲しいことでした。教える教授も西洋哲学”史”は詳しいですが、哲学そのものをしているようには思えませんでした。

西洋哲学に軽く絶望したところで、友達が学んでいるということで、学び始めたのが仏教でした。当初は哲学ではなくて宗教なのではと思い、不審しかなかったのですが、学べば学ぶほど目からウロコで偏見はなくなりました。

特に自分が感じていた「虚しさ」について既に2,000年以上前から解明されていたことには衝撃的でした。誰にも打ち明けることができなかった、悩みがすでに教えられていて、それにどう向き合うべきかも説かれていたのです。驚きとともに、心から安堵できた瞬間でした。

すべては移ろいゆくという諸行無常の世の中を見つめることが無常観と教えられます。そしてその無常を感じていたことが虚しさの大きな要因でした。そして最大の無常とは「死」です。つまり何を成しても結局全ては死ななければならないというのが、虚しさの根っこにあったことを知りました。

これだけで終わってしまっては西洋哲学と同じで絶望しかないのですが、この無常観が仏教の始まりであると教えられます。その深さに学ぶたびに感銘を受けずにおれませんでした。

私とおなじ「虚しさ」という悩みを抱える人がどれほどいるかは分かりませんが、そうして苦しむ人に仏教を分かるように解説したいと思っています。僕が仏教を学び心救われたように、苦しみ悩む若い人の支援ができれば嬉しく思います。

これからよろしくお願いします。