個性って何?”本当の自分”を追い求め悩み過ぎる若者たち

今回は”個性”について書きたいと思います。自分の個性またはキャラクターについて悩む若い人が多くいます。悩むのは誰もがそうですが、あまりにも過剰に悩んでいる気がします。なぜ現代の20代がここまで個性に葛藤するのか、考えました。

今まで以上に個性を気にする20代

「ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン」

誰もが知っているほど話題になったSMAPの「世界にひとつだけの花」の一節です。2003年にリリースされたこの曲は一世を風靡しました。私もそうですが、特にその時多感な小中学生だった人は、心に残ったのではないでしょうか。これまで運動でも勉強でも一位でなくてはならないと強調されていた時代から一転、個性を重んじる教育になったのがちょうどこのころでした。いわゆる「ゆとり教育」の始まりです。個性的であることが素晴らしいこととずっと言われ続けてきたのです。

その結果どうなったか、「シロクマの屑籠」というブログで有名な熊代 亨氏は以下のように書いています。

個性を礼賛し、個性を追求し、“自分らしさ”へと突き進んだ青少年の大半は、個性を賞賛されることもないまま、自分は個性的だという不良債権と化した自意識を胸に、平凡な日常をのたうち回っている。
『使えない個性は、要らない個性。』 – シロクマの屑籠 『使えない個性は、要らない個性。』 - シロクマの屑籠

仮面の画像

そして”本当の自分”があることを信じて、自分探しに奔走するようになったのです。

他の人と同じ、どこにでもいそうな自分ということには耐えられない。特別な個性、奇抜なキャラクターを自分に持たせようとして、そういうものがあると思い込ませるまでになってしまったのです。

アニメキャラクターに扮したコスプレやゴシック調のファッションであるゴスロリ、または赤や緑色の奇抜な髪など外見上に個性を出そうとするのは分かりやすいですが、そういう人だけが個性主義なわけではありません。TwitterやFacebookのプロフィールに他の人と違うように意識して書こうとするのも個性主義の表れです。そこでのつぶやきも他の人が言ってないようなことを言おうと、半分強迫観念に襲われながら書こうとしているのではないでしょうか。

メディアによって触れる多様な個性(キャラクター)

これらの過剰なまでの個性を重視するようになった要因は、教育の面も大きいですが、同時にメディアの影響も大きいと思います。これまで以上に多様な個性に触れる機会が増えたのです。

これまでもテレビで同じくらいの年齢のアイドルや俳優を見ることはあったでしょう。そういった超有名人だけでしたら、そこまで個性への焦りはないかもしれません。しかし、今やインターネットで芸能人以外のあらゆる人の様子が分かる時代となりました。一般人の人が自由に発言できることになったことで、色んな人の個性に触れる機会が爆発的に増えました。

例えばTwitter。そこでは奇抜な発言をした人がファボられリツイートされ、拡散して多くの人の目に触れるようになります。今日は神保町でカレーを食べたといった平凡なつぶやきは誰の目にもとまりません。やはり注目されたいという気持ちが強いですから、奇抜な発言をするように自分を仕向け、それを続けることでそういうキャラクターを設定しています。ツイッターで人気を博す一般人は、そうそういないような個性に溢れています。そういう人を個性的な人と認識しているのです。それに憧れ、踏襲しようとしています。

例えばFacebook。自分の友だちも自分が会ってない時に何をしているのか、知らない友達の姿があります。普段フットサルばかりをやっている大学の同期が、社会人になってバイオリンをひいていることに驚いたりします。そういう人の普段見えなかった様子を見ることで、個性を認識し、自分も変わった何かをアップしたい衝動にかられます。人から見られたときに「個性的」と思われるようなことをし始めるのです。

どちらも目立ちたい、注目されたいという思いですが、その欲望はそのまま個性的であることへの望みと同一です。メディアを通じて多様な個性と触れ合うことで、個性への憧れは強まります。そして、個性を渇望し、勝手にキャラクターという食物連鎖に身をがんじがらめにするのです。個性が薄いと過剰に悩むのはこういう背景があります。

個性的を本当に望んでいるのか

これら個性について、冒頭で紹介した熊代 亨氏は以下のように述べ、警告しています。

あなたが友達にしたい・恋人にしたいと思うのは、出来るだけ個性的な人間だろうか?そうではあるまい。自分にとって望ましい、好ましい個性を持った人間のほうではないだろうか。
『使えない個性は、要らない個性。』 – シロクマの屑籠 『使えない個性は、要らない個性。』 - シロクマの屑籠

個性がないと生きている価値がないくらいに思っていますが、仮にそうだったとしても実質困ることはありません。現に個性で友達も恋人も選んではいません。逆に個性的な人ほど面倒くさいということのほうが多いでしょう。自分と親しい人が一緒にいたほうが落ち着くのではないでしょうか。

そして何よりも個性がない人なんてありません。人はそれぞれ違います。顔も形も性格も趣味嗜好も何もかも違います。似ている人はあるかしれませんが、同じことはまずありえない。同じようにグルーピングしているのは他人というより他ならぬ自分自身ではないでしょうか。

表面的な個性ではなく、まず本質的な存在を問う

仏教では人はそれぞれ全く異なった業(行為)をしてきているので、結果各人それぞれの世界は全く異なるものであると教えられています。そういう意味では誰しもが個性的なのです。ですから、仏教で個性について語ることはありません。広い観点でいえば、小さな問題だからです。

私達がこだわる”個性”というのは表面的なもので、言ってみれば服と同じものです。その時々に合わせて人からよいと思われるもの、人気を集める個性を選び、演じています。個性的を演じることで、羨望の眼差しを集めることができます。そういう意味でビジネスの観点で考えれば、個性を出して、周囲に意識付けすることは確かに大事です。しかし、それが生きる目的なのかと問われればそれは違います。

大事なのは演じて造った個性を剥ぎとった、本当の自分とは何かを考えることです。個性に固執して不幸になるなんて馬鹿げたことです。自身の幸せを第一に考え、それに向かって生きていく。そうした結果あらわれるのが個性です。個性は造るものではなく、造られるものです。

ということで表面的なことにこだわるのではなく、本質である人間とは何かを考えることから始めていただきたいと思います。より本質的な生き方をしましょう。