最終的に必ずブチ当たる”死ぬ”という問題に、仏教は向き合う:死を考える①

「20代からの仏教アカデミー」では、仏教を色んな角度から解説しています。

今回のシリーズは「死」について解説します。「死」という大きな問題に対して、仏教では果たしてどのように教えているのか。何回かに分けてじっくり解説したいと思います。

絶対に免れることができない”死”

「死」という言葉に対してどういったイメージを持ちますでしょうか。

いいイメージを持つ人はまずないと思われます。暗い嫌な言葉として響く言葉です。

そして自分とは遠いイメージを持つ人も多いでしょう。若い自分には関係のないように思っている人も少なくありません。

そんな死について考えることが今注目されています。デス・エデュケーションと言われる「死生学」や遺言状の用意といった「終活」です。

暗く嫌で、自分とは遠いように思える「死」について考えるのはなぜでか。

それは「いつか自分が絶対に死ななければならない」ことを知っているからです。それは自覚していようが、無意識ながらであろうが、すべての人が知っていることです。

自分はまだ死んでいないですが、これまでの人類は皆死んでいます。生きている人はだれもありません。過去何十億はおろか、何兆の人がありますが、一人たりとも、永遠に生きている人はありません。長寿はあっても、死なない人はないのです。今70億人あっても、200年後には誰一人として生き延びないことを知っているのです。

死への挑戦が人間の進歩に。しかし絶対に負ける戦いである

そうした言ってみれば死の歴史に対して、人類は挑み続けました。

原始人が狼といった外敵から身を守るために石器という武器を生み出したのも、死を避け生きるためです。高床式倉庫で米を貯蔵できるようにしたのも餓死を防ぐため。黒船の来訪に対して交渉を努力したのも、戦争を避け、最終的には国の滅亡、自分の死を避けるためです。

これらがなければ今の僕らの生活はありません。これも死に対する抵抗ゆえに築きあげたものなのです。

その点、医療は顕著でしょう。

昔、「天然痘」という病気がありました。天然痘ウイルスという超強力な感染力ともった細菌が全身に膿をつくり、急激な発熱を起こします。そして最終的には死に至らしめる病です。しかもかかってしまったら、最後治療する方法がありませんでした。そのため「不治の病」「悪魔の病気」として世界中から恐れられました。

しかしその中、エドワード・ジェンナー という医師が18世紀の半ば牛痘にかかった人が天然痘にならないという事実から、天然痘ワクチンを開発します。牛からとったワクチンということで大抵抗を受けますが、ワクチンを打った人はほんとうに天然痘にかからないことが明らかになり、一気に普及。そして1958年についにWHOより撲滅の発表が出せたのです。

これにより天然痘で死ぬ可能性のあった多くの命を救ったことは間違いなく、大変素晴らしいことです。死への抵抗から生まれた素晴らしい成果でした。

しかし、悲しいかな。天然痘で死ぬ人はなくなりましたが、死ぬ人がなくなったわけではないのです。医療をつきつめると、死亡率を下げることは出来ます。寿命を延ばすことができます。ですが、死ななくすることは絶対にできないのです。

後生の問題にこそ仏教は向き合う

この必ず死ぬ問題を、仏教では「生死の一大事」として教えられています。生まれてきた人間が絶対に死ななければならない。これ以上の問題はないということで一大事と教えられます。

環境問題や社会問題や政治の問題など色んな問題があります。明日を生きるためにどうすればいいのか。仕事や家庭の問題もあるでしょう。私たちはそれらの問題に頭がいっぱいです。しかし「死ぬ」こと以上に問題は果たしてありますでしょうか。

この死という「後生」の問題に真正面から向き合っているのが仏教です。

仏教ではこの死をどのように解説しているのか。次回は「三位の臨終」という言葉を通じて解説したいと思います。