人だから殺してはいけない?法律、倫理・道徳、仏教から考える:漫画「ギフト±(プラスマイナス)」にみる死生観②

前回、死生観について物議を醸し出している漫画「ギフト±(プラスマイナス)」についての記事を書きました。感想もいただいたこと、嬉しく思います。

前回の記事はこちらです。

[blogcard url=”https://20buddhism.net/gift-plus-minus/”]

 

「ギフト±」では、ヒロインの女子高生・環(たまき)が、連続強姦殺人犯などの「生きる価値がない」と思われる人を捕らえ、生きたまま臓器解体する姿が描かれ、死生観へのあり方が問われています。

連続強姦殺人犯は環から見て(おそらく読者から見ても)「生きる価値なし」の人であり、野放しにしていても何一ついいことなど無いであろう人間です。

前回の記事では

  • そんな人間を、たとえ臓器提供という理由があっても、なぜ殺してはいけないと仏教でいわれるのでしょうか?
  • 環が人間を生きたまま臓器解体することは、本当の意味で人助け・社会貢献と言えるのでしょうか?

という問題提起で終わっていましたので、今回はこのことについて触れてみたいと思います。

法律、倫理・道徳、仏教 それぞれの視点

「人だから殺しちゃいけないのでは!?」

例えば、こういう意見が挙がるかもしれません。

「生きる価値が無いといっても、 人間でしょう?

そりゃぁ、事情はどうあれ、たとえ臓器提供という理由があったとしたって、殺しちゃいけないんじゃないかな?」

おそらく、こう思われる方が1番多いのではないでしょうか。

では、この意見について、法律道徳・倫理仏教の視点で見ていきたいと思います。

法律では、次のように説かれています。

第26章 殺人の罪

(殺人)

第199条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。《改正》平16法156

第201条 第199条の罪を犯す目的で、その予備をした者は、2年以下の懲役に処する。ただし、情状により、その刑を免除することができる。

刑法

「人」を殺した者は、と書かれている以上、いかなる事情があろうと、問答無用で罪に問われるということになります。

(正当防衛はどうなるんだ?という意見もあるでしょうが、今回は、自分の意思があって人を殺しているという前提で話をしています)

道徳・倫理が求めるのは「個人の善と悪の区別」

道徳・倫理では次のように説かれています。

道徳の基準は個人の善と悪の区別に基づき、法の基準は社会における正義と不正を判断することにある。この場合、人々の道徳に関する世界観は、地域・環境・時代によって変化し、宗教の影響も極めて大きい。

法と道徳の関係

個人の善と悪の区別についての価値観なんて、人それぞれではないでしょうか?

何が正しくて、何が間違っているかなんて、議論をして論破してどうこうする問題でもないような気がします。

また、価値観も上にも書いている通り、宗教はともかく、地域・環境・時代と共にコロコロ変わると思いますし、死ぬまで変わらないとは言い切れないと思います。

実際、環やパートナーのタカシは作中で儀式を行う時に、連続強盗殺人犯に対して、このオッサン1人の命でいくつもの命が救われる。これは殺しではなく解体だ、と言い切っています。そして「これも人助けだよ」と笑顔で言っています。

実際、日本臓器ネットワークでは、次のデータが立証されています。

日本臓器移植ネットワーク | 移植に関するデータ | 移植希望登録者数 日本臓器移植ネットワーク | 移植に関するデータ | 移植希望登録者数

平成28年2月29日現在、日本で臓器の提供を待っている方は、およそ13,000人です。それに対して移植を受けられる方は、年間およそ300人です。

そうなると、移植を受けられる方は全体の1割未満です。衝撃の数値ですね。ちなみにダントツの人気臓器は「腎臓」です。

これでは、環達の「命をありがとう」と言われながら儀式を行うことが「人助け」と言われても仕方がないかもしれません。環達にとっては儀式とは、当然、「善」という価値観でしょう。

殺しの動機の良し悪しを問わない仏教

では仏教ではどのように説かれているのでしょうか。

殺生については前回でも書きましたが、ここで簡単にもう一度、述べておきます。

生き物を殺すこと。仏教では最も重い罪の一つとされる。

殺生(セッショウ)とは – コトバンク

仏教の殺生罪にあたる対象は「生き物」全てが該当します。そのため仏教の視点では、「人間だから」殺しちゃいけないという理屈が通じません。どんな小さな生き物でも殺してしまえば殺生罪になるのです。

これは「万物は同根(同一)である」という生命観に由来します。

そして1番大きな特徴は、「生き物を殺す動機の良し悪しについては説いていない」と言うことです。

仏教の視点では、こういう理由だから殺生をしてもいい、または許す、こういう理由だからダメ、とは説かれていないのです

同じく、私たち人間は1匹の動物、例えば、牛の命でいくつもの人間の命が救われるといって、日々、屠殺を行っています。これは周知の事実です。

またハチや蚊に刺されて怒りのあまり殺したり、遊びのために釣りや猟で動物を殺すこともあります。子供のころに虫取りで遊び、最後、その虫を殺してしまう、という経験をされた方も多いのではないでしょうか。

仏教からみれば、誰しもが環と同じ殺生罪をしているのです。

「人間が生きていくためにそれは仕方のないこと」とも思いますが、人間以外の動物は、まさか、「殺され、ましてや食べられること」が当然とは思っていないはずです。

ですが、これが罪だと知ったからといって、直ちにやめるでしょうか。一時的にではなく、永遠に。どうにもならない人間の性、本質が仏教では見抜かれているのです

人助け、社会貢献に犠牲者は出していいの?

次に「環が人間を生きたまま臓器解体することは、本当の意味で人助け・社会貢献と言えるのでしょうか?」という問題にも言及します。

環の儀式、生きたまま臓器解体することはもちろん、罪を作っているということになりますが、それは「本当の意味で」人助け、社会貢献といえるでしょうか。

仮に、臓器移植手術が成功し、レシピエントが本格的な社会復帰を果たしたとしても、それだけでレシピエントは「本当の意味で」満足する日常が送れるのでしょうか。

「臓器移植手術によって延びた命、その命で何をするか」を示してこそ、「本当の意味で」人助けをしたことになるでしょう。

また、「クジラ(臓器解体をされる人)」は環達の主観によって選ばれ、殺害されていますが、当然「クジラ」の意向に反しています。

臓器提供をしたいと挙手をしたならともかく、半ば強引に拉致し、強引に解体という名の人殺しを行っているからです。

つまり、犠牲者が出ているということは事実で、目を潰れる事実ではありません。ですが、「クジラ」を生かしておいても、また新たな犠牲者が増えるかもしれない。

何人たりとも、犠牲者が出てしまうことが「本当の意味で」人助け、社会貢献と言えるのでしょうか。それを仏教では、どの様に説かれているのでしょうか。

次回は、この切り口についてさらに詳しくお話しさせて頂きます。

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