Mr.Children桜井さんがライブで語った「仏教と芥子の実」の逸話とは?

最近、Wii U のカラオケを楽しんでいるのですが、そのスペックが素晴らし過ぎるのです。

ネットにつないで最新曲がダウンロードできるだけでもすごいと感じるのですが、さらに音質も高く、マイクにもばっちりエコーがかかっいて、家にいながらにしてカラオケボックスばりの雰囲気を味わえます。

そのカラオケで必ずと言っていいほど歌われているのがミスチルの曲でしょう。周りにもミスチルファンの方はとても多いです。

男性の皆さんは、ミスチルファンの女性の前でミスチル曲を選ぶときは注意が必要です。なぜなら、女性ファンはミスチルを歌う男性への目がきびしいからです。「私の桜井さん像が壊れる」思いはしたくないのでしょう。男性の皆さんはくれぐれも気をつけてください。

そのミスチルといえば、ライブ『未完』を終えたばかりですね。9月6日の日産スタジアムで行われたライブではあいにくの悪天候だったのですが、なんと6万9000人のファンがつめかけ、とても盛り上がったそうです。

そのライブでボーカルの桜井さんがMCをし、愛について語っていた際に、ブッダにまつわるエピソードを紹介されていました。
そのエピソードとは。またそのエピソードを語った真相とは。とても気になったので、紹介します。

ブッダにまつわるエピソードとは

以下は桜井さんが語ったエピソードの引用です。

子供を亡くしたある母親が、子供の死を受け入れられずに何日も遺体を抱えて過ごしていました。

彼女はすがる思いでブッダ(手塚治虫の漫画にも出てくる仏陀です)のところにやってきて、『この子を何とか生き返らせてください』と懇願したのです。

ブッダは言いました。この町の家庭から「ケシの実」を持ってきてください。ただし条件があります。「死者を一人も出したことのない家庭」のケシの実を持ってくること――。

母親はかけずり回るものの、当然そのような家庭は見つかるはずもなく。そして気付くのでした。身近な人の死は誰もが同じように味わい、受け入れるものなのだと。

母親がブッダの元に戻ると、ブッダは諭します。

「子供が生きているのであれば、生きている子供を愛しなさい。死んでしまったのであれば、死んでしまった子供を愛し続けなさい」

Mr.Childrenライブ『未完』@日産スタジアム-大雨の中で見たもの。(2015/09/06) – てきとうにシンプルに Mr.Childrenライブ『未完』@日産スタジアム-大雨の中で見たもの。(2015/09/06) - てきとうにシンプルに

私もこのエピソードは聞いたことがあります。

話に出てくる子供を亡くした母親はキサー・ゴータミーという名前の人です。幼くして亡くなった子供の死をとても受け入れることができずに、道行く人に手当たり次第、子供を生き返らせる術はないか、聞き回ったのですね。

自分が愛している人が亡くなってしまったならば、とてもその事実を受け入れることはできません。仏教ではこの世のものはすべてが続かない、諸行無常であると説かれています。いくら大事にしているものでも壊れてしまうことがありますし、愛する人との死に別れもあります。

「すべてのものが続かないなんて、そんなの当たり前じゃないか」と思われるかもしれません。しかしそれは自分の本当に大事にしているものの無常に直面していないから言えることです。自分の大切にしているものの無常に出くわしたとき、「あー、やっぱり。やがて続かないと思っていました」と平然としておれる人はとてもいないでしょう。

先月は鬼怒川の堤防決壊による洪水が起こり、甚大な被害がもたらされました。逃げ遅れてしまった方の救出劇がニュースで報道されていましいたが、大変ショッキングな映像でした。中には、目の前でご自身が建てた家が流されてしまった方もおられます。そんな状況を目の当たりにして、平然としていられる人は皆無です。これまで長年の間苦労してきたことも水泡に帰するのですから。

大切にしているものの無常に遭遇したなら、「なんとこの世はきびしいものか」と悲しみ、嘆くにちがいありません。

わかっていると言いながら、わからず驚く無常

小林一茶といえば、江戸時代を代表する有名な俳人です。「はいじん」と聞くと、「堕落した生活をして人として終わってる」という意味の「廃人」を思い浮かべるかもしれませんが、小林一茶は廃人ではありません。人々の心を打つ俳句を次々と詠んだ立派な人ですね。

その一茶が詠んだ俳句が今もなお語り継がれるのは、普遍的な世の無常を反映しているからでしょう。

しかし、一茶は愛娘・さとが亡くなったときに、このような歌を残しています。

露の世は 露の世ながら さりながら

「この世は露のようにはかない」と言われるように、「露の世」というのはすぐに消えてしまう露のようなはかない世、ということですね。

どんなに大事にしているものでも、どんなに愛する人であっても離れていかねばなりません。この世がそんな露の世であることは重々承知であり、人にもそう諭していた一茶でしたが、愛娘の死はとても受け入れることができなかったのです。「さりながら」の言葉に、一茶の無常を嘆く悲痛さが伝わってきてなりません。

このように、無常を本当に理解している人はいないのですね。

身をもって体験させてこそ真実を知ることができる

ブッダのエピソードに話を戻しますと、ブッダは子供を亡くした事実を受け入れられないキサー・ゴータミーに対して「死者を出したことのない家からケシの実をもらってきなさい」という指示をします。

「死者を出したことのない家なんてあるわけないじゃないか。なんでブッダはそんなできもしないことを言われたのか」と思われる方もいるでしょう。しかし、ブッダの真意を知れば、その疑問は晴れます。

錯乱したキサー・ゴータミーにはいくら理路整然と子供が亡くなった事実を伝えたところで受け入れられません。むしろ、もっと感情的になって苦しませることになるでしょう。「どんなに大事にしていても、離れるときが必ずくる」ことを身をもって体験させることが最善だったのですね。

このようにブッダは、私たちが普段は見過ごしてばかりいる事実をあらゆる方法便宜を尽くして知らせようとされているのです。亡くなるのは自分の大切にしているものや人ばかりではありません。私たち自身もいつ死ぬかわからない事実を抱えているのですが、それも平生にはすっかりと忘れて、一時的な楽しみばかりを求めてしまっています。私たちに厳粛な死があるということもブッダは繰り返し説かれているのですね。

仏教を学んでいると「ハッ」とさせられることが本当に多いのはそのためだと知らされます。

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