ワンピース・ロビンが葛藤した人間の存在価値とは?

「ONE PIECEと仏教」シリーズも早いもので4回目となりました。

私がONE PIECEが好きだということを人に話すと、相手から決まって聞かれるのは
「どのキャラクターが好きですか?」
「好きな場面はどこですか?」
ということです。

この2つの質問はONE PIECEに限らず漫画やアニメでは鉄板の質問かもしれません。好きな作品であればあるほど語り甲斐のある内容です。

私自身は特定のキャラクターというよりはストーリーが好きなので、聞かれた時にはそうお答えしているのですが、好きな場面については決まって「エニエス・ロビー」編であると言っています。

「お前は生きていてはいけない人間だ」 存在を否定されたロビン

「エニエス・ロビー」編と言われても何のことやらと思われる方もいらっしゃると思いますので、簡単に紹介をします。

ルフィ達麦わらの一味の仲間の一人にロビンという考古学者がいます。ロビンは幼いころに悪魔の実である「ハナハナの実」を食べたことで体の部位を自由自在にどこにでも「咲かせる」ことのできる能力を持ちました。しかしそれは、一般人にとっては見るからに異質なもの。同年代の子供たちはもちろん、大人たちでさえ彼女を気味悪がり、遠ざけていました。

それに加えてロビンの実の母は考古学者として彼女が小さいころに海に出てしまい、面倒を見てくれることになった弟夫婦は彼女を邪魔者扱いして実の娘ばかりを可愛がります。わずか8歳の少女はいつも独りぼっちでした。

しかしそんな彼女にも楽しみはありました。彼女の生まれ故郷は「オハラ」という島。そこには優秀な考古学者たちが集い、日々歴史の研究をしていたのです。彼らだけはロビンのことをいつでも温かく迎え入れ、可愛がってくれました。そんな彼らの仲間に入りたいと一生懸命勉強した結果、ロビンも8歳という若さで考古学者の試験に合格、見事仲間入りを果たします。これで本当に仲間に入れてもらえる!ロビンはとても喜びます。

ところが、ロビンは古代文字まで読めるようになっていたのです。オハラの考古学者たちは秘密裏に「歴史の本文(ポーネグリフ)」という古代文字で書かれた石碑の研究をしていました。ポーネグリフの解読をすることは世界的な犯罪。見つかればただではすみません。それを覚悟の上で研究を進めていた彼らにしてみれば、幼いロビンをそんな危険なことに巻き込むわけにはいきませんでした。ポーネグリフの解読は決してしてはいけないときつく注意をされ、研究の仲間には入れてもらえず、彼女はやはり独りぼっちでした。

そんな中、考古学者たちの恐れていたことが起きてしまいます。オハラの考古学者たちがポーネグリフの解読をすることで、世界政府にとって都合の悪い事実が明るみに出てしまう。それを何としても阻止したい政府は考古学者たちをオハラという島ごと消し去ってしまうという暴挙に出ました。

島は焼き尽くされ、生存者はゼロ。ただ一人、ロビンだけは何とか島を脱出することができましたが、今やポーネグリフを解読できる唯一の存在であるロビンを政府が放っておくはずがありません。8歳の少女の首には多額の懸賞金がかけられ、金に目がくらんだ大人たちは少女を捕まえようと画策する。天涯孤独の少女に信じられる人はなく、守ってくれる人もない。

それどころか
お前は生きていてはいけない人間だ
お前の罪は生きていることだ
と生きることを否定され続けてきました。

誰も彼女が生きることを望みません。そうやって20年も生きてきたのです。

ルフィが示した存在の肯定

しかし、ただ麦わらの一味だけは違いました。生きるために人を裏切り、盾にし、かつてはルフィ達の敵でもあった彼女を何の迷いもなく仲間にしたのはルフィでした。幼いころからずっと独りぼっちだったロビン。自分を信じ、守ろうとしてくれる存在ができたということがロビンにとって、どれだけ嬉しいことであったかは想像に難くありません

そんな麦わらの一味がピンチに陥ったとき、彼らを守るため、彼女は自らが身代わりとなって世界政府に身柄を拘束されてしまいます。ロビンを助けに行くには政府の中枢まで乗り込んでいかねばなりません。海軍本部も近くにあるような場所で、海賊が乗り込んだならば戻ってこれる保証はなく、自分たちの命も危険に晒すことになる。普通は泣く泣く諦めるところを、麦わらの一味はロビンを助けるために乗り込むのです。

そして、ロビンの敵が「世界政府」だとわかると、それがどれだけ巨大な組織であろうが関係ないとばかりに宣戦布告し、全世界を敵に回します。

ずっと存在自体を否定され続けてきたロビン。「世界を敵に回しても」とはよく聞く言い回しですが、これ以上にその存在価値を肯定する方法があるでしょうか。間違いなく、ロビンは麦わらの一味に必要な人間だということをルフィは行動で示しているのです。

「私」の存在価値とは?

「あなたは必要な人間だ」と言われることほど嬉しいことはありません。

逆に「お前なんかいらない人間だ」なんて言われた日には立ち直れなくなります。スポーツが苦手な私は球技大会がとてつもなく嫌いでした。本来なら練習もやりたくありません。しかし、チームの足を引っ張って「あいつがいなければよかったのに」とは絶対に言われたくなかったので、死に物狂いで練習したのを覚えています。

私たちは自分が周りから必要とされているかということを重要視します。自分が必要とされていない、自分に価値がないと思ったらとても生きてはいけないからです。私たちが生きる上で「自分の価値」は非常に重要な問題と言えるでしょう。

ところで、私たちは人の価値を一体何で決めているでしょうか?

「私」を表す言葉はいろいろあります。名前はもちろん、地位や役職、階級、学歴、容姿、性格、才能、趣味・・・自己紹介で言う事柄というのは、当然「私」を表すものばかりです。しかし、それらはあくまでも私にくっついている、いわば「持ち物」です。私の時計、私の車というのと同じようなものです。私たちは様々なものをくっつけて自分を飾っています。よりたくさんのものを持っていればいるほど、より質の高いものを持っていればいるほど、周りから認められ、もてはやされるのです。

「スクールカースト」「ママカースト」という言葉をご存知でしょうか。現代の学校のクラス内での人間関係や母親同士の関係をインドのカースト制度になぞらえている言葉です。ここでは、容姿、才能、家柄など、まさに持ち物の多さや質をもとに序列がつけられており、それによって周りからの扱いも変わってきます。人は平等だと言いながら、平等とは程遠い現実があるのです。

こんなことは間違っていると誰もが思うでしょう。もしかしたら、渦中にいる人たちも心のどこかでは嫌だと思っているかもしれません。しかし、そこからなかなか逃れられないのが私たちです。自分の価値を認めてもらうために日々持ち物を増やし、質を高めることに一生懸命になっています。そうしなければ、自分に価値がないのだと言わんばかりに。

しかし、もしそれが真実なら、価値があるのは私自身ではなく、あくまでも持ち物の方だということにはならないでしょうか?

もし、何かのことがあって自分からすべて持ち物が離れていってしまったら、「私」には価値がなくなってしまうということでしょうか?

そんなもので私の価値は決まらないはずです。

他人の評価に振り回される私たち

私たちが必死に持ち物をかき集めて質を高めようとしているのは、ひとえに他人からの評価が気になるからです。こんなことでは人から笑われてしまうと、人から見て恥ずかしくないように、嫌われたりしないように自分を飾っているのです。

ロビンもそんな「世間の目」に苦しめられた一人ですが、ONE PIECEの中には他にも他人からの評価によって苦しんでいるキャラクターたちがいます。

ONEPIECEの世界では「魚人」という種族が存在します。魚人たちは長い間、人間たちから差別を受けてきました。迫害に苦しみ、謂れのない非難を受けながらも、人間たちと共に生きていこうと歩み寄る努力をしますが、人間たちの差別は止まず、恨む心ばかりが募っていきます。ただ、肌の色や姿かたちが少し違うだけで、人々は平気で彼らを傷つけるのです。

また、麦わらの一味の船医であるチョッパーも、かつて他人の評価に苦しんでいました。チョッパーは今でこそマスコットキャラクターで皆から可愛がられる存在ですが、元々はトナカイでした。それが「ヒトヒトの実」を食べてしまったことで普通のトナカイではなくなり、群れから追い出されてしまいます。かといって、雪男のような容姿では人間の仲間にもなれず、化け物と呼ばれて恐れられ、チョッパーもまた独りぼっちだったのです。

ルフィは魚人たちを友達だと言い、チョッパーを仲間に誘いました。ロビンのような生い立ちであったり、人種であったり、容姿などで人の価値は決まらない。私たちが評価すべきは持ち物ではなく、「私」そのものの価値なのです。私たちは本当はありのままの自分を見てほしいと思っています。だからこそ、持ち物ではなく、その人自身を評価するルフィの言動というのは深く私たちの心に響くのではないでしょうか。

ありのままの自己を知る

このように、自分の存在価値を他人からの評価に委ね、それに振り回されているのが私たちですが、人からの評価というものはその人の都合によってころころと変わってしまうものです。ロビンは世界政府にとって都合の悪い人間だったから悪人として賞金を懸けられたのです。もし、世界政府にとって都合のいい人間であったなら、そんなことにはならなかったでしょう。

とんちで有名な一休さんは人の評価についてこう言っています。

今日ほめて 明日悪く言う 人の口 泣くも笑うも 嘘の世の中

今日は私のことをほめてくれている人でも、次の日、その人にとって都合の悪いことをしてしまったら、途端に私は悪人になってしまう。そうやって変わっていくのが人の評価だから、それに一喜一憂するのは馬鹿げたことだとうたっているのです。

また、仏教を説かれたお釈迦さまは人間の評価についてこう言及されています。

皆にて褒むる人もなし、皆にて謗る人もなし(法句経)

どんなに多くの人からすごい人だ、偉い人だと尊敬され、好かれているような人でも、中にはそれを妬んで悪く言う人もいるから100%好かれている人などいない。逆に、どんなに周り中の人から悪く言われ、嫌われているような人でも、100%嫌われている人というのもいないということです。

3人の人から同じことを指摘されたら直した方がいいと言われるように、人に意見を聞くことは確かに大事です。しかし、人からの評価で私自身の価値が決まるわけではないというのもまた事実です。

では、私自身の価値を知るにはどうしたらよいのか。仏教は「法鏡」と言われ、ありのままの自己を映す鏡であると教えられています。仏教には人間のありのままの姿が細かく説かれてます。それを知るまま私の本当の存在価値を知ることになるのです。そして、私たちには一人一人に計り知れないほどの存在価値があることを仏教では説かれています。その存在価値を知ってこそ、毎日を心から充実して過ごすことができるのです。

まとめ

持ち物で私の価値は決まりません。持ち物を増やして自分を飾るのもいいですが、「私」そのものを光らせてこそ、自分自身の輝きも増すはずです。この機会に自分を見つめ、そして仏教もぜひ学ばれてはいかがでしょうか。