【昭和元禄落語心中】助六から学ぶ“慢”の本質と、苦しい状況から抜け出す方法

アニメ2期が好評放送中の『昭和元禄落語心中』

2期に渡りアニメ化している『落語心中』の魅力は、劇的に動いていく登場人物の心情と錯綜するそれぞれの思惑でしょう。

前回は「八雲と助六編」中盤の展開から、八雲が最も近しい存在である助六に対して長年抱えてきた「愚痴」の心について解説しました。

今回は前回記事でもご紹介した『昭和元禄落語心中』の鍵を握る人物・助六の辿る運命から学べる、“苦境を乗り越えるためのヒント”をお伝えします。

「助六」の野望と、人気ゆえの“慢心”

「八雲と助六編」は、主人公 与太郎の人生を変えた名人噺家(はなしか)・八雲の過去が語られていく回想編。

芸者の家に生まれながら、幼くして足を悪くしたから養子に出された菊比古(後の八雲)と、自ら弟子入りを志願した少年・信さん(後の助六)。

繊細で神経質な菊比古と、気さくで自由な生き方を好む信さんは、正反対ながらも二人三脚、共に噺家としての人生を歩んでいきます。

特に信さんは早くに落語の才能が開花し、独自の落語の色を確立し人気を上げていきます。お客さんだけでなく、菊比古も

この人の見つめる先はいつも明るい

そして正しい

私も同じ方を見ていれば

自ずと自分の行く道も見える。

と尊敬の念を抱くほど、助六の個性と才能は際立っていました。

正反対な性格でありながら、阿吽の呼吸の間柄は、BL好きな人は思わずときめいてしまう雰囲気

さすがBL界でも人気の高い雲田はるこ先生、2人の信頼関係が繊細に表現されています。

しかし実は菊比古は、自分より常に先を行く助六に対して妬みの心を密かに抱いており、自分の落語を見つけられなくなっていました。

前回ご紹介しましたが、菊比古が苦しんだ妬みや嫉み(そねみ)の心を仏教では「愚痴」と言います。

除夜の鐘を鳴らす回数としても知られるように人間には108の煩悩がありますが、その中でも「愚痴」は特に代表的なものだと教えられています。

一方の信さんは

”八雲を継いで、八雲になれずに寄せ場で野垂れ死んだ養父「助六」の無念を晴らしたい

という野望を幼い頃から抱いていました。

その「助六」の名をもらってから彼の人気は上がり続けます。

広い視野で落語の未来を考え、客の喜びを追求する助六は人気噺家として頭角を現していきますが、人気の高さを良いことに、助六は慢心するようになります

いくら師匠に怒られても、菊比古に忠告されても

「とにかく落語で喜ばしゃあそれでいいんだよッ」

「皆の舌だくるくる巻いてら

まぁ当然だ、俺ァ天才だから

と自分の才能に高をくくるようになった助六。

二ツ目となってから菊比古と二人暮らしを始めますが、働くのは菊比古だけで、助六は女遊びに明け暮れ、師匠から頂いた紋付きも質に入れて飲む金に使ってしまう始末でした。

師匠たちに愛想も振りまかない助六は、目上の噺家から目を付けられてしまいます。

助六が陥った「慢心」も、実は人間の持つ煩悩の代表的なもので、仏教用語では”慢”といいます

慢(まん、Skt:Māna)は、仏教が教える煩悩のひとつである。

他人と比較して思い上がることを言い、キリスト教で言う傲慢に当たる。

俗に我慢といい、我が身をのみ頼みて人を侮るような心を指す。

唯識論では六煩悩(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見)の1つとする。

慢ーーーwikipedia

何か成功したり、良いことが続くと、自慢したくなる心は私たちにも常にあるでしょう。

しかし仏教では””という煩悩は、他人を見下し心の中で踏みつけている、恐ろしい心だと教えられています。

そして煩悩は字の通り、人間を煩わせ悩ませるもの。慢も代表的な煩悩である六煩悩ですので、私たちは慢によって日々苦しんでいるのです。

”慢”という心に溺れた助六に最悪の事態が訪れる

「今日の高座はどういうことだ、

会長の前で十八番かけるなんざ肝が冷えたぞ

よく謝っておいたが…」

寄席のあと師匠から注意された助六。それには訳がありました。

八雲と助六はとうとう、噺家としての最高の階級・真打にまで上り詰めましたが、助六は真打任命の場で会長にイヤミを言われてしまいます。

腹が立った助六は、会長の十八番『居残り』をわざわざ真打お披露目会で演じ、助六の代わりに師匠は会長に謝っていたのでした。

助六「二ツ目ん時できなかった大根多をいよいよやっただけです

その為に真打ンなったんですから」

七代目八雲「馬鹿おめえ…そういうことは独演会でやれ、なにもお披露目会でやるこたねぇだろ・・・

落語は皆で守るもんなんだ

人の和が何より大事なんだよ

勝手なことをされちゃ和にならないよ

テレビだ何だあんなものは、一億総白痴化って言われてるよ

噺家の本分は寄席にあるんだから

あんなもんにも出るのは控えろ」

しかし助六には、今後テレビを始めとした新しい娯楽に大衆がどんどん流れていく未来が見えていました。

やがて来るそんな時代に落語が生き残るには、落語界は変わるべきではないか。

落語の生き残る道を作りたいという強い思いを助六は師匠に切々と訴えます。

しかし助六の態度に日頃から頭を悩ませている師匠には、その心が分かってもらえません

酒の入った席でだんだん喧嘩腰になっていく二人。そんな雰囲気に呑まれ、助六はつい口走ってしまったのです。

「だから師匠の落語は古くさくてまどるっこしいんだ!

決して師匠に言ってはならないその一言。

助六は自身の人気へのおごりから、つい口を滑らせてしまったのでした。

「そんな風に思ってたのか…

手前(テメエ)なんかに継がせてたまるか、八雲は菊にやるんだ

一存で決められる事じゃねえが、手前みたいな品のねぇ野郎にやれる名前じゃなねえこた確かだ

そんな自由に生きてえなら破門してやらァ

手前で勝手に生きろィ

激昂した師匠により、助六は破門されてしまいます。

の本質は、優越感に浸って油断するだけではありません。心の中で周囲の人を踏みつけて、見下している恐ろしさにあります。助六も一番恩のある育ての親、師匠の落語を心の中で踏みつけていたのです。

本人すら自覚していなかった慢という煩悩の恐ろしさに助六が気づいたのは、噺家としての人生を失った後でした。

惑業苦にはまる助六とみよ吉が引き合い、更なる苦しみに呑み込まれていく

噺家生命を絶たれた助六に声をかける女がありました。

「あたし菊さんに振られちゃった」

そこにいたのは、菊比古に捨てられた、みよ吉でした。

「何かあったの?話聞いてあげる…」

敵わない恋に焦がれる愛欲で苦しむみよ吉と、慢で全てを失った助六

寄り添い合った二人は、失踪します。

消える直前、菊比古は街中で助六を見かけ、師匠に謝って破門を解いてもらうよう説得します。

助六「みんな顔見りゃあ、小言か哀れみだ

あんなにずっとお前はダメだダメだ言われてたら気が狂っちまうよ

こんなせめぇ業界じゃ息もできなくなっちまう」

菊比古「師匠はああなんだから、お前さんから折れて…

助六「絶対嫌だ俺は何一つ間違っちゃいねぇ!

人は苦しいときほど、苦しみのスパイラルに陥ってりまいがちです

助六が聞き入れるべきだったのは、みよ吉ではなく菊比古の助言でしたが、「自尊心を守りたい」という、これまた煩悩である欲が邪魔をして、助六は菊比古に助けを求めることも、師匠に謝ることもできませんでした

煩悩によって苦しんでいる私たち人間。苦しみからさらにイライラしてしまったり、自暴自棄になってしまうこともあるでしょう。

このように人間の苦しみが深まっていく過程を仏教で「惑業苦(わくごうく)」といいます。

「惑」とは欲や怒りによって心が乱れ迷っている状態。

「業」は迷いから生ずる、さらなる悪い行い。

その行いによって生まれた更なる苦しみを「苦」といいます。

この後みよ吉は、勤めていたお店のお金を盗んで、助六と共に消えます。

菊比古に抱いた叶わぬ恋の愛欲によって苦しむみよ吉と、慢によって油断した助六は、苦しみから更なる悪に手を染め、負のスパイラル(惑業苦)に陥ってしまったのです

私たちも、職場の人間関係のストレスや将来への不安など、質は違えど日々様々な苦しみの中で生きています。

盗みや殺人など犯罪を起こす人をみると、まるで自分とは違う世界にいる悪者のように見えますが、そんな人たちも最初のきっかけは小さな苦しみだったのでしょう。

ちょっとした苦しみから惑業苦のスパイラルに陥ってしまいやすいのが私たち人間。

そんな私たちだからこそ、相談相手や身の回りの環境といった縁」を適切に選ぶことが大切です

仕事や人間関係、恋愛など、うまく行かずに苦しんでいることは耐えない私たち。惑業苦のスパイラルにはまってしまいそうなときは、自分のことを本心から心配してくれる人は誰なのか、冷静に考えたいものです。

苦しいときこそ、ふと立ち止まって正しい「縁」を選ぶことが大切なのですね。