ほめると自立心を奪う!?アドラー心理学が教える本当の自立のさせ方

嫌われる勇気」が2015年のビジネス書ランキングで1位となり、とどまることのなさそうなアドラーブーム。

さらに嬉しいニュースが入ってきました。「嫌われる勇気」の続編である「幸せになる勇気」が2月26日に発売予定です。

Amazon.co.jp: 幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII: 岸見 一郎, 古賀 史健: 本

3年後に哲人を訪れた青年はそれまでどういった生活を送り、どのような考え方の変化があったのか。またそれに対して哲人はどのように答えるのか…。気になって仕方がありません笑 発売を楽しみに待ちたいと思います。

ますます盛り上がりそうなアドラーブームですが、ではそもそも、アドラー心理学の目標とは何なのでしょうか。それは「自立」することです。自立とは「自分の人生の問題を自分の力で解決できる」という意味でした。それでは、自分の子どもや部下を自立させていくにはどうすればいいのでしょうか。

それには自分の問題に立ち向かうための「勇気」を与える必要があります。勇気を与える行為が勇気づけでしたね。相手を勇気づけるには「叱ってはいけない、ほめてもならない」と教えられます。

叱ってはいけない理由については前回お話ししました。

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今回は「ほめてもならない」理由をお話しします。

ほめることの目的は自立心を奪い、他者を操作すること

どうすれば子どもや部下にやる気を出させ、自主的に自分の問題に取り組ませることができるのか。それには「ほめる」ことが不可欠だと思いますよね。ほめられれば嬉しいですし、やる気が出てきます。

ところがアドラー心理学では、ほめることが禁止事項となっています。それはほめることの目的が相手を操作することだからです。

「嫌われる勇気」には以下のように書かれています。

人が他者をほめるとき、その目的は「自分よりも能力の劣る相手を操作すること」なのです。そこには感謝も尊敬も存在しません。

われわれが他者をほめたり叱ったりするのは「アメを使うか、ムチを使うか」の違いでしかなく、背後にあるのは操作です。

アドラー心理学が賞罰教育を強く否定しているのは、それが子どもを操作するためだからなのです。

(以上、岸見一郎・古賀史健(2014). 「第四夜 世界の中心はどこにあるか」 『嫌われる勇気』 ダイヤモンド社 より引用)

その気はなくても、ほめることで、相手を自分の思い通りに動かそう、意のままに操ろうとする心理が働くのが私たちです。ほめることにより相手は喜び、やる気を出すようになります。しかしやがては「ほめられればやる。でも、ほめられなければやらない」という考えになり、相手からほめられることに依存するようになっていくのです。

さらには、相手からほめられないと「自分には価値がないのだ」とまで思うようになり、自分の問題に取り組めなくなります。

人からほめられることに自分の価値を見出そうとすれば、他者の評価を常に気にして、他者に依存し、他者の人生を生きるようになってしまうのですね。これでは自立どころではありません。

勇気づけるには、素直な感謝・喜びを伝える

では、他者をほめずにやる気を出させ、自立をさせていくにはどうすればいいのでしょうか。

それは以下のように教えられています。

仕事を手伝ってくれたパートナーに「ありがとう」と、感謝の言葉を伝える。あるいは「うれしい」と素直な喜びを伝える。「助かったよ」とお礼の言葉を伝える。これが横の関係に基づく勇気づけのアプローチです。

(中略)

いちばん大切なのは、他者を「評価」しない、ということです。

岸見一郎・古賀史健(2014). 「第四夜 世界の中心はどこにあるか」 『嫌われる勇気』 ダイヤモンド社

ほめることは他者の上に立たなければできない行為であり、それには操作の心理が働きます。しかし、感謝や素直な喜びを伝えることは、ほめることと違って、他者を評価する行為ではありません。人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知り、自らの価値を感じ、自立する勇気が湧いてくるのです。

人に心からの感謝を伝えることを仏教では「心施(しんせ)」といわれます(心施とは – はてなキーワード)。「ありがとう」「助かったよ」という言葉を通して感謝の心を施す(=与える)ことです。心を施されることで、私たちは自分の価値を感じ、勇気を得ることができます。

見返りを求め、感謝に依存している実態

このように感謝やお礼を伝えることは大切です。ところが、私たちには自分の行為に対して、感謝やお礼などの見返りを求める心があると仏教で説かれています。

たとえば旅行の帰り、くたくたに疲れて電車で座り込んでいたとします。その自分の近くに年配の方(おばあさん、としましょう)が立たれました。(よりにもよって、どうして自分の前に…)と思いますよね。自分も疲れているから座っていたい。席を譲って自分が立てば、重い荷物を持たないといけない。自分が降りる駅はまだずっと先。けれどおばあさんに席を譲るのがモラルだから…、とあれこれ考えます。

そんな座りたい心いっぱいの自分を押し殺して「お席、どうぞ」と譲ったとします。ところがおばあさん、こちらをチラッと見ただけでお礼も言わず、「やっと譲ったか」と言わんばかりの顔でドカッと席に座ったら、どういう心が出てくるでしょうか?

申し訳ないですが、私なら後悔の波が押し寄せてきます苦笑「こっちだって余裕があって席を譲ったわけではない。疲れている中譲ったのに、お礼の一言もないなんて!何年人間やっているんだ!」と罵詈雑言を並べ立てるかもしれません。

席を譲ったこと自体は善いことなのですが、お礼を言われないと腹を立て、もう二度とやらないと決意する。悲しい人間の実態です。親切をするかしないかを、ほめられるかどうかだけでなく、人から感謝されるかどうかでも決めてしまうのです。相手から感謝されることに依存してしまうのですね。

「アドラー心理学入門」でも、その点を警告されています。

何か特別なことをしたときにだけ注目するとかえって特別でなければならないと思うようになり、そういう特別なことができる子どもは先に見たような言葉をかけてもらうことをめざして適切な行動をするようになるでしょうが、いい成績が取れないというように特別であることができない子どもたちは適切な行動をすることを止めてしまうかもしれません。

そのような場合、ありがとうということも、ほめることになってしまいます。子どもの側からすれば、ありがとうという言葉を期待するようになり、そうなるとほめる場合に起こるのと同様の弊害が起きることがあります。 やがて見るように、勇気づけることが場合によっては相手をいわば勇気づけに依存させることになることがあります。

岸見一郎(1999). 「第二章 アドラー心理学の育児と教育」 『アドラー心理学入門』 ベスト新書

「行為」ではなく「存在」のレベルで見る

では感謝にも依存させずに自立をさせるにはどうすればいいのでしょうか。

それには「行為」ではなく、「存在」のレベルで相手の価値を認めることだと言われています。

このような危険を回避するために、「存在」そのものに注目したいのです。何かをしたからではなく、ただ「存在」していることがすでに喜びであるということを伝えてみます。

岸見一郎(1999). 「第二章 アドラー心理学の育児と教育」 『アドラー心理学入門』 ベスト新書

他者のことを「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見ていきましょう。他者が「なにをしたか」で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです。

岸見一郎・古賀史健(2014). 「第四夜 世界の中心はどこにあるか」 『嫌われる勇気』 ダイヤモンド社

存在そのものが認められることによって、ほめられるかどうか、感謝されるかどうかとは無関係に自分の価値を感じ、自立していけるようになるのですね。

それでは他者の存在価値を認め、価値あることを伝えるにはどうすればいいのでしょうか。それについては次回の記事でご紹介したいと思います。

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