「人は死んだらどうなるのか」をガチで考えてみた。分かったことは単純な「有る」「無し」ではないということ

現在、深夜の2時。死んだらどうなるかを大真面目に考えています。

大学時代をエロスの研究に捧げ、四六時中エロスについて想いを馳せている私ことショーンは今、珍しく「死んだらどうなるか」という人生の最大問題に想いを馳せているのです。

なぜこんなことを考えているかについて、特段の理由はありません。ただ、何となく。

小学生の頃、夜寝る時に「このまま目を覚まさなかったら…」と考えて、ひとり寝付けなくなることがよくありました。気がついたら眠っていて、朝日とともにそんなことを考えていたことすら忘れてしまうのですが、夜になると何の前触れもなく、”それ”はまたやってきます。そして一度考え出してしまうと、寝ようとしてもなかなか頭から離れてくれないのです。

しかし中学、高校と進むにつれ、だんだんと死ぬことに対して、眠れなくなるほどに「怖い」と感じることは無くなってゆきました。「いつか死ぬけど、それは今日じゃない」ということが、生きていく年数を重ねるごとに自分の中に染み込んでいくからかもしれません

小学生のころは多分、「死」というものを初めて理解した年頃だったから、あれほどに怖く感じたのだと思います。それより幼いと、死というものを理解さえできないから怖くないし、中学生を過ぎてしまうと、今度は逆に慣れてきてしまいます。ちょうど、入ったときは鼻が曲がるほど臭っさいトイレでも、だんだんと鼻がバカになってしまうように。

そしてやがて、必死で生きる毎日のリアリティと、それを無に帰す「死」というものとのギャップに、現実味を感じられなくなってくるのです。

だから頭では、「いつか死ぬ」とは理解できるものの、今まで生きてきた、今も生きている、次の瞬間も生きていられるはずだという「今」「今」「今」…のリアリティに、終わりが来るとはもう思えくなってくる。こうして私の中で、「死」は日常からもっとも遠い、ともすれば忘れられがちな小さなものになっていったのです。

ところが今、この歳になって改めて死について考えみたところ、小学生のころに感じたあの感覚がよみがえってきたのです。未知への怖れ、今生きている自分(=世界)は無くなるのに、他人の日常は続いていくという不思議。死んだ先にあるのは、永遠の「無」なのか、それとも「有」なのか。「無」ならば、それはどんなものか。眠っているときと、どう違うのか

ただ、小学生の当時と、今の自分との違いは、あの頃はただ怖がることしかできなかった死に対して、「考える」ことができるということ。徒に死を怖がっていても、何の解決にもならない。

そこで今回は、死んだらどうなるか、というこの一点について、無い頭を絞って考えてみた思考の足跡を記していきます。。少々長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。

「死ぬこと」以上のビッグイベントが無い理由とは?

さて、冷静にたちどまって考えてみると、「死ぬこと」以上のビッグイベントは人生に無いのではないか、思います。

もちろん、生きていれば他にも沢山の問題が起こります。朝寝坊して会社に遅刻する、〆切に間に合わない課題がある、第一志望校の受験がある、足を切断する大手術を受ける…小さなものから大きなものまで、沢山の問題、イベントがあります。

それら複数の問題のなかで、何が自分にとって一番重要な問題かを決める際、それらに「同時に」直面した時の心境をありのままに見つめてみるとよく分かります。そのとき自分は何を優先し、何に心を奪われるか

例えば明日、自分が死ぬことがわかったとして、来週の〆切に間に合わない課題のことを心配するでしょうか。あるいは、どうしても行きたい第一志望校の受験当日、大地震が起きても心が受験に向くでしょうか。

否、あるのはただ、なんとも言葉にしがたい不安で、それと比べたらどんなことも小さな問題としか思えなくなる。それが、「自分が死ぬこと」ではないかと、思うのです(もちろん人によっては、残された家族のことを想ったり、会社の社長ならば従業員のことをしばしの間、考えるかもしれませんが)。

また、こんな考え方もできます。目の前にどんな願いも叶えてくれる魔法のランプがある。お金に困っている人は「10億円ください」と願い、病気で苦しんでいる人は「病気を治してくれ」と叫ぶでしょう。恋人を失って悲しんでいる人は「もう一度逢いたい」と念じるかもしれません。

そのどれも叶えてくれる魔法のランプですが、一つだけ条件があるのです。それは「その願いが叶った瞬間に、死ななければならない」ということ。

もしそうだとして、自分は同じことを願うだろうか。こう自問してみたとき、いかに「死」が大きな問題かが思い知らされる気がしたのです。悩みも楽しみも、一瞬にして吹っ飛んでしまいます。

“私がなくなる”ことへの不安

では死の何がいったい、そんなに問題なのでしょうか。次に考えてみたいと思います。

ふつう真っ先に思いつくのは「痛み」です。病気で死ぬ、ビルから飛び降りる、ナイフで刺される(物騒なものばかり苦笑)。どれも強烈な痛みを伴いそうです。

しかし痛みがまったくなければ死ぬのは問題ないか、と聞かれるとそうではない気がします。たとえば、高層ビルから飛び降りて死ぬ、といった場合、肉体的な痛みを感じる間もなく死ねます(らしいです)。が、それでもやっぱり怖い。

死んで大切な人と別れていくことが苦しいのかというと、これも部分的にはそうですが、それだけではないと思われます。なぜなら人とのつながりの薄い人でも、やっぱり死にたくないと思って日々を生きているのですから。

では上記のような肉体的、精神的(あるいは社会的)苦痛のほかに、どんなことが死を最大の問題たらしめているのでしょうか。

実際に死に直面しなれければ分からないので、あくまで想像の域をでませんが、やはり私にとっては、「この自分がなくなる」ということへの不安です

「ワタシ以外ワタシじゃない」のに、その「ワタシ」がなくなるのです。いや、正確には、本当に無くなるのかさえ分からない。無くならないかもしれない。無くならないとしたら、どうなるのか。すなわち、死後は有るのか?無いのか?という不安です

夢の中でみた世界は「有る」といえるか

ここで、そもそも「有る」とか「無い」とはどんな状態を言うのでしょうか。

目の前に木がある、りんごがある、お金がある、空には月がある。これらは知覚・認識・共有できる「有る」です。しかし例えば、目の見えないひとにとっては、月は「有る」と言えるでしょうか。手にとって触れない、聞くことも嗅ぐこともできない月は、その人にとっても「有る」のでしょうか。

目が見えなくても、月だったら、かすかな光を感じることが出来るのではないか、と言われそうですが、虹ならどうでしょうか。その人自身にとって知覚・認識・共有できないものを「有る」といえるかは、議論の分かれるところです

また、こんなことも考えてみたいと思います。ズバリ、夢のなかで見た世界は「有る」と言えるか。例えば夢のなかで出会ったエロスの化身は「いる」といえるのかという問題です。

あるいはまた、脳内に直接映像を送り込む技術があったとして、そうやって見せられた世界は「有る」と言えるのだろうか、ということです。つまり、先ほどの月や虹のような物質的、外的な「有る」「無し」とは違って、非物質的・内的な「有る」「無し」という議論も可能なのではないだろうか、という問題提起です。

ここまで考えてみると、死んだ後は有るのか無いのかという問題は、そもそもの「有る」「無し」という議論が非常に難しいことが分かります。

しかし上記の考え方には、それでもまだ決定的に欠けている視点があります。それは、今までの話はあくまでも、私(=人間)の知覚能力を前提としている点です。つまり五感があって、意識(無意識も含めて)があって、今までの経験・記憶をもとに議論している「有る」「無し」であるという点です。

「有る」「無し」の議論をもっと難しくしているのは、死後は、今のこの肉体は焼いて灰と化すわけですから、私(=人間)としての知覚能力を前提とすることはできない、ということです。

よく、世間で宗教と呼ばれているものが死後の世界を好き放題に語りますが、それらはほとんどが、死んだ後も人間としての知覚を持っていられる前提です。死んだ後も霊魂的なものは存続する、という考え方を無下に否定することはできませんが、「天国で笑っている」とか「霊界で悲しんでいる」とか、その霊魂的なものが人間の知覚能力を有している点に、インチキ臭さを感じてしまうのです。いかにも人間が考えた感があるからです。

また「死後は無い、それはちょうど眠っている状態(意識のない状態)がずっと続くようなものだ」と思っているひとの考え方も、「有る」と語る宗教と同じくらい人間的過ぎる発想です。これはこの章の一番初めに述べた、目の見えない人にとって虹はあるか、という「有る」「無し」レベルの発想と同じです。意識のない人にとって世界は「有る」か、という問題の認識の仕方だからです。

それでは数多の宗教と同じで、あくまでも、人間としての知覚能力(五感や意識など)を前提とした「有る」「無し」でしかありません。肉体を焼いた後、意識を超えた何かが「有る」可能性が考慮されていないことになります。死後はあくまでも、こうした「有る」「無し」だけで語り尽くすことのできない問題なのです。

「有る」も「無い」も間違い?仏教の説く驚きの死後

さて、こうしてじっくりと考えてみると(深夜の4時になりました、パチパチ)、実に分からないことだらけであることが分かりました。しかし同時に、ハッと気がついたことがあります。それは、ここにあってやはり仏教の教えは際立っているということです。

「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! ショーンおなじみの我田引水パターン」とか思われた方、そうです。いつも記事のご愛読ありがとうございます笑 私ことショーンは、ここから先のことが書きたくて、わざわざこんなに長い前段を書いたのです。

実は、仏教では死語を単純な「有る」「無し」では説かれていません。それらを、

常見」と「断見」と言われ、徹底的に打ち破られた方がお釈迦様です。

常見(じょうけん)とは、仏教用語で、「アートマン(自我:霊魂)」は永遠に続くもので不滅であるとする見解のこと。反対語は断見。

常見 – Wikipedia

断見(だんけん)とは、因果の法則を無視して、人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解のこと。反対語は常見。

断見 – Wikipedia

「有る」でも「無い」でも間違い。じゃあ結局どっちなんだい!ということですが、どちらでもないのです

次号では仏教の教えについて詳しく書き綴りたいと思います。理解の補助として、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの有名な「環世界」の概念や、量子論の不思議な世界も合わせてご紹介する予定ですので、興味のある方はぜひチェックしておいて下さい。

 

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    ABOUTこの記事をかいた人

    ショーン

    金融機関のシステム部門で働く、仏教哲学を愛する20代男。学生時代は東日本大震災の復興支援に勤しむかたわら、政治経済学部で4年間、エロスについて研究をした。3年目からは「親切な変態」の名を欲しいままにした。