「東大生活は楽しい」は幻想?東大卒業生の声から分かる、幸福を測る「ものさし」の大切さ

皆さんは東京大学を知っていますか?知っていますよね。

今月半ば「東大の学生生活は本当に病むから気をつけたほうがいい」というタイトルのはてな匿名ダイアリーが、はてなブックマークで700以上ブックマークされ大きな話題を呼んでいました。

日本人のほとんどが「日本中の天才が集まるキラキラした夢のような大学」と思う東京大学

東大生活といえば「楽しい大学生活」の最高峰に思う方が多いでしょう。

東京大学なんて遥か雲の上の遠い世界な学力の筆者もずっとそう思ってきました。

しかし実際は楽しいどころか「本当に病む」と書かれたこの記事。

どうして東大生は病んでしまうのでしょうか

世間一般のイメージと実際の東大生活はこんなにギャップがある!東大卒業生が語る東大生の苦しみ

百数十万人の同い年に生まれた子供のうち、3000人くらいしか入れない大学です。

そこに入るには、日本でトップクラスの学力を要するといわれています。

芸術よりも、お勉強の道を選ぶ人は多いので、まあ、入学するには最難関の大学の一つですね。

日本で年間3000人しか入学できない、難関中の難関大学。

東京大学の名前を知らない日本人はいないでしょう。

最難関で、多くの受験生にとっては手の届かないキラキラした大学。

自分にはムリだけど、きっと入学できたら楽しい大学生活という幸せが待っている。

筆者もそうですが、多くの方は東京大学にこんなイメージを持っているのではないでしょうか。

しかし卒業生のこの方は、現実はまったく違うといいます。

東大に入ると、せっかく東大に入ったのに自信がなくなるのは、当たり前です。

なんせ、駿台模試とか東大オープンとかで、自分の点数(440点満点で220点くらい)から見ると理解困難な点数(330点とか)を取っていた秀才がリアルに目の前にいるのです。

人の学力をけなすような低劣な人格だったらまだ溜飲が下がるってもんですが、そういうのに限っていいやつなんだな。

そういう秀才を目の前にして、ひがんで屈折してしまう自分の、人格的な弱さと、その根底にある学力の弱さに涙した東大一年生は何百人もいるはずです。

誰もそんな恥ずかしいことは口にしませんが、そうやって自分のせいで人間不信になって、大学に来れなくなったり第二外国語をさぼって放校になる駒場生は何十人もいます

私たちが想像する楽しいキャンパスライフとはまったく程遠い世界がそこにはあるのですね。

そして東大生活を共にした学友のその後も見たこの方は、皆が皆「幸せ」を掴んだわけではないと語ります。

この年になるといろいろなものを見てきました。

キラキラしていた秀才が、国家公務員試験を上位で合格し、某省で組織防衛に身も心もさいなまれ、書類の書き換えの何が悪いと言い放つ姿も。

誰もがかなわないと思った研究者が、研究に疲れ果てたタイミングで引っ掛かった男に身も心も搾取され、売春でその彼に貢ぐようになってしまった姿も。

勉強ができたから、当然のように理学部物理学科に進学しあるいは司法試験に受かったのに、それらの職が本来求める対人調整能力がなかったがゆえに、人生で唯一得意な受験勉強で食ってくために予備校講師になった姿も。

18歳の時に知り合ったキラキラした秀才が、そういう風にして、堕ちていく姿をたくさん見てきた

日本人の多くは東京大学に入れませんから、東大に入れば卒業後も輝かしい未来が約束されていると思いがちです。

しかし現実はどちらも程遠いというのです。

東京大学の試験に受かる方は、言わずもがな生まれ持った高い才能と才能に甘んじない並ならぬ努力ができる人でしょう。

そんな天賦の才能に恵まれた優秀な人の中にどうして、東大生活も卒業後もこんなに苦しむ方が多くいるのでしょう

その理由は「人生のものさしだとこの方はおっしゃっています。

天才たちが東大生活で苦しむのは、「人生のものさし」を知らないから

それでも、学力という、偏差値という唯一の物差しを信じて人生18年生きてきた東大生は、病むほどに勉強します

だって進振りがあるんだもん。

教養の平均点を偏差値に置き換え、平均点の優劣で人生が決まると思って勉強します

病むほどに点数は上がります。病むほど勉強しないと、同級生の秀才たちには太刀打ちできないのです

東京大学に入る学力が「人生のものさし」だった東大一年生。

そんな秀才たちも自分も敵わない秀才の中の秀才に出会うことで、「人生のものさし」という名の幻想が入学直後に砕かれます。

しかし18年、または19年や20年以上もの人生、学力や偏差値という基準が唯一のものさしだった彼らはその「ものさし」が自分を幸せにしてくれると信じ切っていますから、病むほどになおも勉強を続けます。

しかしその学力というものさしはいつまで、東大生を幸せにしてくれるのでしょうか。

大学内での成績不振だけでなく、秀才たちには研究者としての道や就職した会社での生活など、様々な人生の過程でその「ものさし」をバキバキに折られていきます。

キラキラした秀才が堕ちていくのは、ものさしが折れた時、生きる意味を感じられなくなるからではないでしょうか

本当の意味で私たちを幸せにする「人生のものさし」はあるのか

筆者は東大なんて遥か遠い学力ですが、中学生のときまでは「秀才」と言われていました。

しかしコミュニケーションが苦手でよく男子にいじめられていたので「トップ高に入って見返してやる」と思って勉強し、トップ高合格が何よりの幸せだと思って塾に通っていました。

体育の内申点が10段階中3だった私は筆記試験が命で、体を壊すほど勉強し憧れの学区内トップ高に入学しました。

しかし幸せは一瞬で崩れます。

トップ高は「質実剛健」「文武両道」をモットーとする学校で、クラスの中心になるのは勉強もできて華やかでスポーツもできる子たち。

運動音痴で内向的な筆者にとって、行事が盛んな憧れの高校ライフは校風が合わず地獄となりました。

しかし学力という「人生のものさし」しか知らない私は、次は大学で幸せを掴むんだと意気込み受験に挑むも失敗。

浪人して挑んだセンター試験で緊張からパニック障害を発症、第三志望の大学すら合格は望み薄になりました。

前期試験も失敗し、記念受験で第三志望の大学の後期試験に向けて小論文の勉強をしていた時。

ふと自分が信じてきた「ものさし」は自分を幸せにしてくれるのか、疑問を感じたのです

次元はまったく違いますが、先程ご紹介した記事でもこう表現されています。

上には上がいる

そして、一つの物差しで「上」を計ろうと思うと、全体として自分が如何にあれば幸せになれたのかということが分からなくなってしまうのだと思う。

勉強が出来過ぎたがゆえに、勉強の物差しで人生は幸せになれると思い込まされる

予備校生のとき「学力」というものさしが折れた筆者は「自分を本当に幸せにできる人生のものさし」を見つけたいと思うようになりました。

幼いころキリスト教の教会が運営する幼稚園に通っていたこともあり、最初はキリスト教をベースにした哲学に関心を持っていましたが、奇跡的に合格できた第三志望の大学で仏教を学ぶ機会に恵まれ仏教を学びたいと思うように。

仏教にはこの「幸福のものさし」に二種類あることが説かれています。

「学力」「財力」「結婚」…私たちが自分を幸せにすると思っている「ものさし」は他人と比較して良し悪しが分かるものさしです。

学力があるのは良いことです。

財力がまったく無ければ生きていくのが大変ですから、財力も大切です。

素敵なパートナーと出会うことも良いことでしょう。

いずれも大切なことです。

しかし仏教では「他人と比較しなくても幸せ」といえる「ものさし」を通して人生を見つめています。

仏教を説かれたお釈迦様は、一国の皇太子で「質実剛健」「文武両道」

東大生以上に私たちが知る「ものさし」で測る幸せの頂点にいました。

そんなお釈迦様は人間が幸せを測るものさしとして考えるものでは本当の意味で幸せになれないと知ります。

そして全てを捨て、出家し仏の悟りを開かれ、その後の生涯全てをかけて教えていかれたのが「他人と比較しなくても幸せ」といえる本当の「ものさし」です。

「勉強のものさし」では本当の幸せになれない。

それを教えてくれた「質実剛健」「文武両道」の高校生活は私にとって実は人生の財産だったかもしれません