鬼怒川堤防決壊、氾濫… 痛烈に知らされた仏教で説かれる逃れ難き無常

9月10日から11日にかけて、関東・東北地方が記録的な大雨に見舞われました。

特に、首都圏にも流れ込む一級河川の鬼怒川の堤防が決壊したことがニュースで大きく取り上げられています。堤防決壊の茨城県常総市では住宅など2万棟が浸水したといいます。

家々が流されていくところをニュースで見ましたが、屋根の高さまで水かさが増し、屋根にのぼって助けを待つ住民の方の心境はいかばかりであったかと思うと、いたたまれません。命の危険が迫っているのはもちろん、築き上げ住み慣れた家が濁流に飲み込まれていく姿はあまりに衝撃的で、言葉を失います。

復旧も作業も進められている一方、捜索・救助活動も続いており、常総市では15名が行方不明で、お2人が亡くなられたそうです。

「鬼怒川堤防決壊5日目、“濁流の現場”は今」 News i – TBSの動画ニュースサイト 「鬼怒川堤防決壊5日目、“濁流の現場”は今」 News i - TBSの動画ニュースサイト

想定外の雨量で堤防が決壊したことで甚大な被害となってしまったのですが、全国には鬼怒川のような国が管理する一級河川と、都道府県の管理する二級河川が合わせて二万以上あるそうです。それらの水害対策はどうなっているのでしょうか。

河川ごとに堤防などの長期整備目標があり、基本的には周辺に住宅がある流域には、全て目標を満たす堤防を整備する計画だが、河川の多さから時間も予算もかかり、「目標に達している河川はほぼない」(国交省)のが現状だ。

国の治水事業費は平成9年度の約1兆3千億円がピークで、その後、不況などで公共事業の予算が削減され、今年度は半減に近い約7800億円となった。

【東日本豪雨】相次ぐ堤防決壊 ハード対策追いつかず 専門家「想定以上の水が流れ続けた」(2/2ページ) – 産経ニュース 【東日本豪雨】相次ぐ堤防決壊 ハード対策追いつかず 専門家「想定以上の水が流れ続けた」(2/2ページ) - 産経ニュース

堤防の整備は追いついておらず、今回のような記録的な大雨が発生すれば、鬼怒川のように堤防決壊・氾濫してしまう河川は間違いなく出てきてしまうでしょう。都内を流れる荒川が氾濫したことを描いた国交省作成のフィクションドキュメンタリーも、もはや「どうせ、フィクションだから」とは言っておれないのですね。

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自分の身は自分で守れるのか

国の水害対策も万全ではなく、河川の多さ、予算や時間の都合もあり、今後も十分な対策も望めない中、災害から身を守るためにどうすればいいのでしょうか。

よく言われるのは「日ごろからの備えが重要」ということです。国の対策が望めない以上、自ら対策を施していくしかありません。地域や身近に住む人たちと一緒に助け合いに取り組むことも大事ですが、突発的な災害にはやはり、自身の災害への意識を高めることが必要ですね。一人一人が防災に取り組む「自助」といい、いわゆる「自分の身は自分で守る」ことが一番の大切な防災対策と言われます。

このように、災害に遭遇した際の避難場所を熟知したり、非常食を用意にしておくといったことはとても大事です。しかし、いくら自助意識を高め対策を施しても、「これで十分」ということや「絶対大丈夫」ということは有り得ません。手の施しようのない災害に巻き込まれてしまい、命を奪われかねないのが私たちです。

日本三代随筆の一つである『徒然草』(吉田兼好著)には

死は、前よりしも来らず、かねて後に迫れり(155段)

と書かれています。私たちの思いもよらぬところで死の危険が迫っているのであり、「自分の身を自分で守る」ことは不可能なのです。

どんな人も逃れ難い無常

政治により防災対策が施されようとも限界はあり、災害の危機には常にさらされています。たとえ災害に遭遇しなくとも、突然の事故や病気など、私たちの命をおびやかすものは絶えません。

先述の徒然草にはこうも書かれています。

春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり。

(中略)

生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待たず(155段)

今年の夏は猛暑が続きましたが、8月も半ばを過ぎると急に涼しくなり、今はもう秋のような気候ですね。ただ、8月を過ぎても9月になっても猛暑が続く年もあるように、9月1日になると同時に夏がこれで完全に終わって秋が来たということはありません。夏のうちから秋の気配が入り交じり、移り変わっていくのですね。

同様に、私たちが生きるということも、若くて元気なうちから老いと病と死の気配が漂ってくるのです。それは四季以上に移り変わりが速く、しかも順序がありません。老いが来て、その後に病が来て、最後に死がやってくる、というものではなく、突然の病もあれば死に襲われることもある。死期は生の中に常に潜んでいるのであり、順序関係なくやってくるです。

政治でも医学でも、延命のために日夜、大変な努力がなされており、それはとても重要なことでもあるのですが、人間の死を根本から解決することはできないのですね。

仏教では私たちの死を「無常」といわれ、どんな人も逃れることはできないと教えられています。

上は大聖世尊よりはじめて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり(御文章)

※大聖世尊:仏教を説かれたお釈迦さま 提婆:お釈迦さまに違背したとされる。お釈迦さまを亡き者にしようと企てた人物で、大罪人とみなされている。

仏教を説かれた聖者・お釈迦さまも、そのお釈迦さまを暗殺しようとした大罪人・ダイバも、死を免れることはできないのです。

防災対策を施したり、延命のための研究を進めることは生きる上で大切であり、不可欠なことですが、根本から無常の解決をすることはできません。いつ、どんな災害に遭遇するかわからず、逃れることのできない無常の身の私たちが、どうすれば心からの安心を得て生きることができるのか。その解決方法を明らかにされているのが仏教と言われます。

ニュースで取り上げられている事故・災害は決して他人事ではなく、自分の身にも降りかかるものと受け止め、自分で自分の身を守る対策だけでなく、無常の問題を解決して安心して生きられる真の防災対策も施していかねばなりませんね。