「普通でも自閉症でもどちらでもいい」自閉症の作家・東田直樹さんに学ぶ“肯定的なあきらめ”とは

自閉症を抱えている東田直樹さんの著書「自閉症の僕が跳びはねる理由」(エスコアール)を読みました。

東田さんは1992年生まれの23歳。1歳を過ぎたころから自閉症とみられる行動が増えていき、3歳のときに重度の自閉症であると診断されました。

自閉症は、先天性の脳機能障害が原因とされる発達障害の一つで、発症率は100人に0.9人程度といわれます。

「人は言葉によって傷つき、言葉によって救われる」 自閉症の作家・東田直樹さん(22)の物語 – 産経WEST 【言葉ってすごいねIII(下)】「人は言葉によって傷つき、言葉によって救われる」 自閉症の作家・東田直樹さん(22)の物語(1/3ページ) - 産経WEST

自閉症には、同じ質問を繰り返したり、突然大きな声で叫んだり、言葉が出てこなかったりなど、他者とうまくコミュニケーションが取れないという特徴があります。

しかし東田さんは筆談によりコミュニケーションが取れるようになりました。さらにパソコンを使って原稿も書けるようになり、現在は全国各地で講演会を開催されています。

東田直樹オフィシャルサイト 「自閉症の僕が跳びはねる理由」 東田直樹オフィシャルサイト 「自閉症の僕が跳びはねる理由」

自閉症の子供の多くは自分の気持ちを表現することができず、東田さんのように自分の思いを伝えられる方は稀といわれます。ゆえに東田さんの言葉は、自閉症の子を持つ親が我が子のことを理解するのに大きな助けとなっているのです。

世の中の全ての人に見捨てられたような気持ち

私も本を読みながら、自分の通っている小学校にいた自閉症の子たちを思い出しました。せわしなく跳びまわったり、言葉もおぼつなかった彼らを見て「おかしな人達」と思っていました。当時は小学生であったとはいえ、彼らがどれほど一生懸命ものごとに打ち込んでいるかを理解しようとしなかったことが恥ずかしく思われます。

東田さんは、自分のことがわかってもらえない苦しさを以下のように記されています。

話せないと言うことは、自分の気持ちを伝えられないことなのです。孤独で夢も希望もなく、ただ与えられた毎日を人形のように過ごすことなのです。

僕たちは、自分の体さえ自分の思い通りにならなくて、じっとしていることも、言われた通りに動くこともできず、まるで不良品のロボットを運転しているようなものです。

いつもみんなにしかられ、その上弁解もできないなんて、僕は世の中の全ての人に見捨てられたような気持ちでした。

僕たちを見かけだけで判断しないで下さい。どうして話せないのかは分かりませんが、僕たちは話さないのではなく、話せなくて困っているのです。自分の力だけではどうしようもないのです。

(以上 東田直樹(2007). 「第一章 言葉について」 『自閉症の僕が跳びはねる理由』 エスコアール より引用)

自分のことが分かってもらえなくて苦しまれている方はとても多いですよね。言葉を駆使しても自分の気持ちを伝えることは難しいです。まして話すことさえできない苦しさは察するに余りあります。

自分のことを受け入れられたとき、私たちはとても安心し、所属感も生まれます。ところが、自分が全く受け入れられないとしたらどうでしょう。「世の中の全ての人に見捨てられたような気持ち」という表現は、決して大げさではないとわかります。

誰の役にも立てない 何のためにこの世に生まれたのだろう

もし自分が自閉症になり、気持ちも言葉にできず、まわりから誤解され、受け入れてもらえなかったとしたら…。それどころか、自分はまわりに迷惑をかけてしまうだけの存在であると思い込んでしまったなら…。生きる希望も失い、人生に絶望し、どうして自分はこんな障害を抱えて生まれてきてしまったのか、と嘆き悲しむに違いありません。

東田さんもそのように思われていました。

僕たちのようにいつもいつも人に迷惑をかけてばかりで誰の役にも立てない人間が、どんなに辛くて悲しいのか、みんなは想像もできないと思います。

何かしでかすたびに謝ることもできず、怒られたり笑われたりして、自分がいやになって絶望することも何度もあります。

僕たちは、何のために人としてこの世に生まれたのだろうと、疑問を抱かずにはいられません。

側にいてくれる人は、どうか僕たちのことで悩まないで下さい。自分の存在そのものを否定されているようで、生きる気力が無くなってしまうからです。

東田直樹(2007). 「第二章 対人関係について」 『自閉症の僕が跳びはねる理由』 エスコアール

「普通の人になりたいですか?」の問いへの意外な返答

自閉症の子を持つご両親、そして何より自閉症を抱える本人が完治することを望んいるでしょう。迷惑をかけてばかりで誰の役にも立てないと思われている東田さんも当然、自閉症が治ることを望んでいるに違いありません。

ところがその東田さんに「普通の人になりたいですか?」と聞いたところ、意外な返答をされました。

今ならもし自閉症が治る薬が開発されたとしても、僕はこのままの自分を選ぶかも知れません。

どうしてこんな風に思えるようになったのでしょう。

ひと言でいうなら、障害のある無しにかかわらず人は努力しなければいけないし、努力の結果幸せになれることが分かったからです。

自分を好きになれるのなら、普通でも自閉症でもどちらでもいいのです。

東田直樹(2007). 「第二章 対人関係について」 『自閉症の僕が跳びはねる理由』 エスコアール

私が著書を読み、最も心に残った言葉です。東田さんは自分の運命への嘆き・悲しみを乗り越え、自閉症であることを受け入れ、努力する道を歩まれているのです。実際に、本の出版や講演会を通して、自閉症の子を持つ多くの家族に希望を与えています。

本当に素晴らしい生き方であり、自分ももっと人に希望を与えていかなければと奮起させられます。

「肯定的なあきらめ」と誤解された「あきらめ」

自閉症は先天的障害であり、普通な状態へと変えることは困難です。障害を患ってしまったことは本当に大変な苦痛ですが、それをいくら嘆いても事態は変わりません。変えられるところで努力していかねば幸せになれないのですね。

“変えられないこと”と”変えられること”を見極めることを個人心理学では「肯定的なあきらめ」といわれます。

「あきらめ」と聞くと、結局現状を嘆くしかないのかと思われそうですが、元来の意味はそうではありません。

「あきらめ」は仏教の言葉である「諦観(たいかん)」が語源です。諦は「真理」という意味なので、諦観とは「真理、本質をあきらかにみる」ということなのです。(諦観(タイカン)とは – コトバンク より)諦観(タイカン)とは - コトバンク

だから「肯定的なあきらめ」とは、“変えられないこと”と”変えられること”を見極め、変えられることを努力して変えていくことなのですね。

ところが今日使われている「あきらめ」は、変えられないことを変えようとして「あきらめ」たり、変えられるのに変える努力を怠って「あきらめ」たりと、真逆の意味で使われています。そんな「あきらめ」であってはなりません。

変えられることを変えるための努力をする道を歩み、多くの人に希望を与えている東田さんはまさに「肯定的なあきらめ」を実践されています。自分を見誤って、努力することを放棄し「あきらめ」るのではなく、東田さんのように自分を変える努力をしていきたいですね。

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