日本人の駅伝好きは“和”にあり? 聖徳太子から学ぶ団結の精神とは

毎年秋から冬にかけて、日本の各地で駅伝が盛んに行われています。

今年も例に漏れず、元旦のニューイヤー駅伝、1月2日~3日の箱根駅伝では、沿道に人があふれ、不動の人気ぶりです。特に人気の高い箱根駅伝では今年、青山学院大学が二連覇を飾ったことでも話題になりましたね。

「走るのは絶対嫌というほど大の運動嫌いだけど、箱根駅伝は毎年欠かさず観ている」という人も多く、駅伝には他のスポーツにない特別な魅力があるような気がしてなりません。

しかし、海外に目を転じれば、駅伝が盛んな国は日本だけです。駅伝は英語に訳そうにも該当する表現がなく、強いて挙げれば日本語でそのまま「ekiden」としか言いようがありません。日本人の駅伝好きは、世界的に見ても日本独特のものだといえます。

おそらく、日本の駅伝人気の背景には、日本独特の精神文化があるような気がします。

駅伝の勝利のカギは「団結」にあり

駅伝は、スタートからゴールまでをいくつかの区間にわけて、各区間の走者が次の区間の走者へたすきをリレーしていき、その合計タイムをチームで競う競技です。

各区間の距離や高低差などのコース特性はバラバラで、単純に長い区間から順に持ちタイムの速い選手を充てていけば勝てる、というものではありません。

また、他のチームの選手の区間配置や、たすきリレー全体の流れ(前半突き放して後半逃げ切るのか、前半先頭に食らい付いて後半まくるのか)などを鑑みて、戦略を立てていくことが求められます。戦略の巧拙が、各走者が本番でいつも以上の力を発揮できるかどうかを左右するため、戦略を抜きにして駅伝の勝利はないといえるでしょう。

その戦略の巧拙を大きく左右する最大の要素が、チーム内の団結です。「絶対に勝ちたい」「皆のために最高の走りをする」という気持ちがチーム内で一つにまとまることが、固い団結を生み、各走者の力を最大限に引き出し、チームを勝利に導くのです。

「団結」は日本の底力の源泉である

日本は昔から、団結を原動力として、幾度も窮地を乗り切ってきました。戦後の高度経済成長を果たした原動力も、企業内での社員の団結でした。戦後間もないころ、産業の復興を目的として、日本国憲法の施行に先駆けて労働組合法が施行されました。

各企業内での労働組合の設立を奨励し、企業単位で社員の団結を促せば、それが産業復興の起爆剤になるということを当時の政府は理解していたのです。そしてその目論見どおり、日本は見事に世界有数の技術立国にのし上がりました。

こうした、「個の力でハンデを抱えている者同士が、団結力を武器として敵と立ち向かい、激闘の末に勝利する」とうシナリオは、ドラマティックなストーリーの流れを地で行くものです。日本人は、幾度も団結で窮地を突破してきたという過去の歴史上の事実から、こうしたストーリーに特に共感を覚えるのでしょう。

駅伝は、当日のたすきリレーけでなく、たすきリレーのスタートラインに立つまでの経緯を含めて、丸ごと全部が日本人の共感のツボに見事にヒットするストーリーの王道といえるでしょう。

真の団結のカギは「和する」努力にあり

今日の日本は、バブルが崩壊して長い不況に突入して久しく、高度成長期までの企業内だけの団結では立ち行かなくなりました。同時に個人主義の傾向が強まり、団結を美徳としていた年代層にとっては、どこか寂しく、世知辛い世の中になったという印象は否めないでしょう。

団結というものは、戦後から高度成長期までしか役に立たない、過去の産物だったのでしょうか?

いや、決してそんなことはなく、団結のあり方を変えていく必要が出てきたのでしょう。これまの日本は、企業やムラ単位の閉じたコミュニティ内だけでの縦方向の団結のみを墨守してきましたが、これからは、コミュニティの垣根を越えた横方向の団結を、もっと活発に行ったほうがよいのではないかと思います。

どうすれば真の団結を築けるのか。それを考えるとき、日本に仏教を最初に伝え、「和国の教主(日本のお釈迦さま)」として尊敬される聖徳太子の「十七条憲法」からヒントを得ることができます。

和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗とせよ。」(第1条)
(現代語訳:和を何よりも大切にし、いさかいをおこさないことを根本としなさい)

十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)-現代語訳付き 十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)-現代語訳付き

「和」とは団結のことです。「和」と聞くと、団結やまとまりをイメージできるのは、ここに由来していると思います。

しかし、「和」という状態が元から存在するのではありません。「和」が成り立つためには、「和する」努力が必要になってきます。

なぜなら、私たちは皆凡夫(ぼんぶ)だからです。第10条には以下のように記されています。

「われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。」(第10条)
(現代語訳:私が必ず正しいということはない。相手が必ず間違っているということはない。皆共に凡夫なのだ)

十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)-現代語訳付き 十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)-現代語訳付き

「凡夫」とは「愚かな煩悩を断じていない衆生をいう。 凡夫(ぼんぷ)とは – コトバンク」とあるように、私たち人間のことをいいます。(衆生が人間の意)

煩悩とは、怒りなど、私たちを煩わせ悩ませるものです。私たちは皆煩悩の塊であり、煩悩によって悪をつくって相手を苦しめ、その結果自分も苦しむのだと、仏教で説かれています。

そんな私たちが自分のしたいままに振る舞っていては、団結など夢のまた夢です。そこで、自分が凡夫であると自覚した上で、相手の立場を尊重しつつ、自分の思いを開示して、互いに思いを共有していく。その積み重ねが大切なのだと思います。

終わりに

真の団結は、自分が凡夫であると知るところから始まります。そうして、真の団結の難しさ、すばらしさを知ることができれば、毎年興奮しながら観ている駅伝が、さらにドラマティックなものに映ることでしょう。

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