こんにちは、YURAです。今回は、仏教を学ぶ上で非常に大切だとされる無常観についてお話しします。
無常と聞くと、思い浮かぶフレーズがありますよね。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
の平家物語の冒頭です。中学生のときに覚えさせられた、という方も多いのではないでしょうか。
ここに無常とありますね。無常とは「常が無く、変化している。続かない」という意味であり、もともとは仏教から出た言葉です。なので無常観とは「無常であることを観つめる」ことですね。
無常に接したときに私たちはどう感じるのか。その受け止め方が日本と韓国で変わっているように思います。日本の無常観と韓国の無常観はどう違うのか。そして、そもそもお釈迦さまは私たちにどんなことを気付かせるために「世の中すべてのものが無常である」ことを説かれたのか、迫りたいと思います。
「無常は美しい」の日本人と、「無常は悲しい」の韓国人
日本では、無常を「美しい」と捉えます。
桜がはらはら散る姿を見ると、はかない無常に美を感じます。また、死ぬ覚悟で主君のために仇討をする赤穂浪士の姿を見て、その潔さに涙します。日本人は、移ろいゆくものにこそ美iしさを見出し、華のように死ぬる姿に美徳を感じる、独特の文化を持ちます。
一方韓国では、無常を「悲しみ」と捉え、「恨(ハン)」という言葉が使われます。
「恨(ハン)」という文字、日本語では「うらみ」と読みますが、韓国語で「悲しみ」の意味があります。日本語で「うらみ」とは「怨」と「恨」にあてられ、ほぼ同じ意味として用いられますが、韓国ではこの2つの言葉を区別して使います。
文学博士である李御寧(イ・オリョン)氏によると、韓国の「怨(ウォン)」という言葉は他人に対して抱く感情であり、「恨(ハン)」という言葉は、自分の内に沈殿していく自分に対する感情だと説明しています(心に積もる悲しみの情 「恨の五百年」)。
つまり「怨」は不満や相手を憎む心であり、「恨」は後悔や悲しみの心だということです。そして韓国人は、この「恨(ハン)」という悲しみを乗り越えることに、価値観を見出しているのです。
ではなぜ、同じアジアでありながら、こんなにも無常への感じ方が変わったのでしょうか。
島国と半島の文化の相違 受信文化と通路文化とは
文化が作り上げられていく過程で、風土は重要なポイントです。その土地の気候や気象などもそうですが、その国が大陸なのか、島なのか、半島なのかという地形も密接な関係にあります。
1999年に行われた「東アジア3国比較文化論」シンポジウムでは、地形と文化の関わりを、次のように発表されています。島国である日本を受信文化・融合文化とし、半島に位置する韓国を通路文化・徹底文化としています。以下、要約です。
日本は島国であるため、外敵の侵略と異民族の支配がなく、周囲から文化や技術などを吸収し、それを融和させて、独自の文化を磨きあげ築きあげてきた。
外国との交通が海に隔てられ、発信的な文化型は形成しにくいので、自ら外国の文化を積極的に受けいれる受信的な文化型を形成してきた。
さらに受信した外来文化を巧みに融合して日本化する。
また、
韓国は、島と大陸との結節点である半島に位置する。半島という地理的条件から、韓国は、大陸と島との両方から、武力による侵略や支配を受けることが絶えなかった。
韓国では、外来文化を丸のまま受容して、変容させることなく、そのまま受け継ぐのが特徴である。
そして、受容した外来文化を徹底的に実践するか、あるいは徹底的に放棄するかの二者択一をするのも、もう一つの特徴である。
もちろん、その国の文化を考える上で歴史的背景は大きな要因ですが、地理条件もまた、文化と密接に関連しています。無常の捉え方に関しても、自然の脅威が多かった日本では、無常を「どうしようもない、仕方ないもの」と捉え、それを受け入れ、「無常は美しい」という独自の価値観を見出しました。
外的脅威が大きかった韓国では、無常をそのまま受け止めて、その悲しみを乗り越えるところに価値観を見出す一つの要素になったのではないでしょうか。
ところで、この2国間に共通していることは、双方の歴史において、仏教が伝来した国であるということです。ではそもそも、お釈迦さまが無常を説かれたのは何のためだったのでしょうか。
お釈迦さまが無常を説かれた本当の目的
冒頭でお話したように、無常とは常がない、続かないということで、この世に存在するものはすべて、絶えず移り変わっているということです。
無常を「儚いもの」と捉えている日本人はあながち間違っていません。しかし、これを美徳と感じるところに、違和感を覚えます。無常はそもそも悲しいものです。
例えば、先日ベッキ―の不倫疑惑事件がありました。以前、彼女は好感度の高い芸能人と言われ、その好印象ぶりは「人間じゃない」と言われるほどでした。しかし不倫疑惑記事が出た瞬間、世間の目はガラリと変わり、好感度は急落、休業するまでになりました。
また、台湾で大きな地震が発生しました。今、ニュースで報道されているマンションの住人たちは、まさか自分のマンションが崩れるとは、夢にも思ってもいなかったでしょう。きっと、もうすぐ始まる旧正月の準備や、休暇に行く旅行を楽しみにしていた人ばかりだったと思います。
しかしこれらのことは、私たち自身にも起りえることです。無常をお釈迦さまが説かれたのは、自分もいつ無常に襲われてしまうかわからない身であることを気付かせるためだったのです。
いつ他人からの批判に晒されるかわからない。
いつ災害に遭うかわからない。
いつ命を落としてしまう事故に巻き込まれるかわからない。
そんな儚くて続かない命を抱えていることを観つめ、生あるうちに、やるべきことをやり遂げなさい、と教えられているのです。
無常を観じて知らされること
仏教の言葉に
世間の生滅無常を観ずるの心も、また菩提(ぼだい)心と名づく
龍樹(ナーガールジュナ) – 2世紀のインドの高僧
とあります。無常を観ずる心が菩提心(生きてきてよかった!という喜びの心)であると教えられています。無常を観つめると聞くと、暗く沈んでしまうイメージがあります。しかし、無常を観つめることで、限られた命を持つ私たちにとって本当に大切なこととは何かがハッキリわかり、生きてきてよかった!という喜びにつながるのです。
私たちはすぐに、あれをしたい、これをしたいと、欲のままに行動し、大切なことを忘れてしまいがちです。そうならないためにも、お釈迦さまの教えられた無常観を常に思い出していきたいですね。