「悪人を助けるか、死なせるか?」視聴率40%越えの韓国ドラマ『太陽の末裔』にみる“命の価値”【2】

こんにちは、YURAです。
2016年上期に放送された「太陽の末裔(태양의 후예)」は、先日6月3日、韓国で行われた「第52回百想芸術大賞」で、テレビ部門の最高賞である大賞を受賞しました。

さらに、主演のソン・ジュンギ&ソン・ヘギョの“ソンソンカップル”がグローバルスター賞人気賞を揃って受賞し、話題を呼びました。

【韓】[2016 百想芸術大賞] 「太陽の末裔」大賞受賞

前回は、このドラマの主人公の女医カン・モヨン(ソン・ヘギョ)のセリフを通して、“殺生に善悪があるのか”について書き、その上で、他人の命や利益を脅かす悪人が裁かれるのは、やむを得ないではないか?という疑問を残して終わりました。

前回の記事はこちら

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今回は、劇中で起こったある事件を通して、“悪人の命の価値をどう考えるのか”について、迫ってみたいと思います。

ギャング団と対峙したシジンとモヨン

ある日、ユ・シジン(ソン・ジュンギ)とカン・モヨンは、窃盗現場に出くわします。犯人は子供で、発熱と発疹を起こした、はしか患者でした。お金がなくて、手あたり次第、薬を盗んだのです。

はしかは、すぐに治療をしないと高い確率で命を落とすか、後遺症が残る、恐ろしい伝染病です。2人は拡散を防ぐために、子供の住む村に向かいます。

そこはおばけの村と呼ばれる、各地域のギャングが人身売買のために子供たちを拉致・監禁している場所でした。

そのお化けの村を管理しているのは、シジンのかつての戦友でありながら、今は犯罪に手を染めているアグスという男でした。

シジンとモヨンは、アグス率いるギャング団と対峙し、一触即発の緊迫した空気が漂います。

と、その時、一発の銃声と共にアグスが倒れます。この村に住む少女が後ろから発砲したのです。アグスは重傷を負います。

助けるか、このまま死なせるか

おい、ドクター、何をしてる。早くなんとかしろ”というギャング団員の声と、
お願い、あいつをこのまま死なせて”という少女の声とが折り重なる中、モヨンは立ち尽くします。

モヨンがアグスを助けると、ここで監禁されている子供たちはどうなるでしょうか。

助けないほうがいいと思う。このまま死なせたほうが…。

私がこの人を助けることで、もっとたくさんの人を殺すことになるかもしれないでしょう

(KBS 2TVドラマ「太陽の末裔」第10話より)

今まで何人もの命を奪ってきた悪人を助けるかどうか。

そう問われると、

 私は医者です。生命は尊く、それ以上に価値のあるものはないと考えています

(KBS 2TVドラマ「太陽の末裔」第2話より)

今まで生命の尊厳を守り貫いてきたモヨンも動揺を隠せず、アグスを助けるか否かで悩みます。そんなモヨンに、軍人であるシジンは、次のような言葉をかけます。

助けてください。あなたは医者だから、あなたの仕事をしてください。

殺さなくてはいけない状況になったら、私が殺しますから

(KBS 2TVドラマ「太陽の末裔」第10話より)

恋人シジンは、どれだけモヨンが命を尊く思っているかを知っていました。

この言葉に背中を押されたモヨンは、アグスに治療を施して命を助け、医師としての使命を全うします。

仏教で説かれる“命の価値”の基準

「命は尊いものだ」という強い信念を持っていたモヨンも、いざ悪人1人の命か、その他大勢の命かと問われたとき、何が正しいのか迷ってしまいました。

私たちも、そう思う瞬間があると思います。

命は平等であり、人命は重いと言われるものの、「確かに、善人の命は重いと思うけど、悪人の命は重いなんて思えない。裁かれても仕方ない。」と感じる人もいるのではないでしょうか。

特にこの事件のように、多くの子供の命を奪いかねない悪人は、尚更でしょう。

しかし仏教では、悪人であれ善人であれ、すべての人の命に価値があるのだよ、と教えられています。

そのことを教えられたのが「天上天下 唯我独尊(長阿含経)」という言葉です。
お釈迦さまの言葉の中でも特に有名なので、一度は聞かれたことがあると思います。

一般には「この世で一番偉いのは私一人だ」と使われることもありますが、以下に書かれているように、それは大きな誤解です。

【注釈】「我」は釈迦本人の意味ではなく、個々人であるとする。それぞれの存在が尊いものであるということ。

【注意】「自分が一番えらい」というような、うぬぼれの意味では使わない。
誤用例 「この世の中を自分が支配して、天上天下唯我独尊にしてやろう」

天上天下唯我独尊 – 故事ことわざ辞典 天上天下唯我独尊 - 故事ことわざ辞典

「我」はお釈迦さまだけではなく、個々人、私たち一人一人、ということなのですね。

「独尊」とは、たった一つの尊い使命、ということ。

従って、この言葉の本当の意味は、天上にも地上にも、我々人間にしか果たせない、たった一つの尊い使命があるのだ。だから、その使命を果たすための命が尊いのだよ、ということです。

「命の価値」=「使命の重さ」

命とは、私たちに与えられた時間であり、
使命とは、その限られた命(時間)で何をするか、ということです

無駄に時間を過ごしてしまって、「なんでこんなことに時間を使ってしまったのだろう。意味のない時間だった」とむなしさを感じたことは誰しもあると思います。

反対に、充実した時間を過ごせたなら、「価値ある時間だった」と思えますよね。

価値のある時間だったかどうかは、どのように過ごしたかで決まるように、命の価値は使命の重さによって決まる、といえるでしょう。

ですから私たちは、せっかく与えられながら、悪事を働くために使う悪人の命は、価値が低いように感じ、反対に、周りを幸せにするために使っている善人の命には、価値があると感じます

ところが仏教では、たとえ今は悪事に手を染めている悪人であっても、その悪人にも果たすべき尊い使命があるのだから、その命には価値がある、と説かれるのです。

もちろん、すべての命が尊いからといって、人の命を奪うような悪人を野放しにするのは、決してあってはならないことです。アグスのような悪人には、人の命を奪うことがどれほど恐ろしいことかを理解させる必要があります。

そのことを踏まえた上で、どんな人をも果たすべき「人間の使命」について、このサイトで続けて仏教を学び、知っていただきたいと思います。

※セリフ翻訳:YURA
記事の構成上、一部意訳しているところや、省略しているところがあります。ご了承ください。

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