こんにちは。オシャレで金髪にしたのに、なぜか昔なじみからは「どしたん?」と心配される、みさきちです。
大学生の時にしか許されない、髪色の変化を楽しみたいのは私だけじゃないと思います。
高校生までは校則が厳しくて、金髪など派手髪はNG。その反動で大学生になって思い切って染めた人は多いのではないでしょうか。
この多様性の時代にも関わらず、派手髪はまだしも、地毛の色や前髪の長さなど、生徒の見た目に関しての校則が問題になっています。私から見ても、あまりにも時代遅れだというものもあります。
そんないわゆる「ブラック校則」に私たちはどう向き合えばよいのでしょうか?その本質とはなにか、仏教の観点からも迫りたいと思います。
持ち物検査嫌いじゃない人いるの?現在のブラック校則事情
ではまず、「ブラック校則」一体どんなものなのでしょうか。
文部科学省によると、校則は「社会通念に照らして合理的とみられる範囲内で、学校や地域の実態に応じて適切に定められる」とされています。
つまり校則は地域の状況や校風に合わせて各学校が創意工夫し、定めていけるものなんです。
その校則の中でも、一般社会からみたときに明らかにおかしく、合理的でないと判断されるようなもののことを、ブラック校則といいます。
では、その現状から見ていきたいと思います。
ブラック校則として現在話題にあがるのは、特にツーブロックなどの特定の髪型の禁止や、髪の長さ、髪染についてなど、髪の毛に関するものが目立ちます。
問題となった事例としては、
- 地毛が茶髪っぽくても、黒く染めなおしてくるように言われた
- 体育中に暑くても顔や体をあおいではならない
- 「女子の下着は白のみ」で、服装検査時に女性の教師にチェックされる
- 授業中、喉が渇いてもお茶を飲むのが禁止
- 男女で教室に残るのが禁止
- 眉毛を整えるのが禁止されている
などなど、これらは少しやりすぎなように思います…。
また、半数以上の学校が服装や頭髪、持ち物に関する検査を実施しているようです。
そこでは、生徒を一列に並ばせ、隅々までチェックするという方法をとっている学校も少なからずあり、そのような検査に対して不信感を抱く生徒も多いようです。
では、なぜそんなブラック校則があるのでしょうか。
その背景をすこし見ていきましょう。
ブラック校則も、1980年代ではホワイトだった話
ある高校の新学期。
担任の先生が教室に入ると、生徒たちは、机に座ったり、ボールで遊んだりして、ずっと騒がしいようすです。
先生が「静かに〜!」と注意すると「てめぇが静かにしろや!」と1人の生徒が前に出てきて、先生の胸ぐらをつかみ脅します。
そう、これはかの有名なドラマ『ごくせん』の冒頭、仲間由紀恵演じるヤンクミが、はじめて3年D組の生徒と対面したシーンです。
今みると、フィクション感が強く感じられます。『ごくせん』が始まったのは2000年初期ですが、この頃よりもっと前、1980年代頃にはこのような光景がよく見られたようです。
尾崎豊の「卒業」の歌詞でも
「夜の校舎 窓ガラス壊してまわった」など、今考えると物騒ですが、この頃の学校現場の荒れようがうかがえます。
最後方の歌詞の「この支配からの卒業」に代表し、歌全体で大人や社会への反抗心がこもっているように感じます。
それもそのはず、この時代の教育現場は、学歴主義による、受験競争の加熱化で落ちこぼれが増加しました。そんな学校や社会への反発としての校内暴力や少年犯罪が横行していた時期でした。
そんな学校現場の崩壊から脱却すべく、生徒への体罰などが当たり前になり、また学校の規則はより細かく、厳しいものになりました。
そこから40年ちかく経ち、コンプライアンスが叫ばれるようになった今でも、その一部が残ってしまっているところがあるようです。そしてそれが「ブラック校則」として取りざたされるようになりました。
そう、ブラック校則の1番の問題は「時代の流れに合わせて変わっていない」ことです。
令和にまだハンコ使ってるの? 染み付いた慣習の怖さ
ではなぜ、昔の校則が今でも変わっていないのでしょうか。
その理由としては、「変えなくてもやっていける」という状況が考えられます。
教育大学で先生志望の私が、現役の先生になぜ変わらないのかを聞いてみたところ
校則などの学校のルールは、昨年度のものを踏襲するため、よほど問題がない場合、変更されないそうです。一度決まったものは伝統的に引き継がれてゆく傾向にあります。
私も、高校時代、生徒会活動で校則を変えようとしたことがありますが、そのために生徒の意見を集めたり、根拠を出して先生に納得してもらい、さらにそれが上にわたって、ようやく変わるなど、かなりの労力がかかりました。
(これについては次回の記事で詳しく説明します。)
変えるべきなのに変わらない。
日本の印鑑文化にも同じようなことが言えます。役所などの大事な手続きでハンコが必要、忘れたら手続きできない、なんてこと今でもよくあると思います。
先日、銀行に住所変更の手続きをしに行ったときの話です。ローカルな銀行なのですが、営業終了がなんと15時、閉まるのが早すぎる。
15時前にギリギリ滑り込んだものの、手続き待ちの列が出来ていました。
並んでいる間、前の人が手続きをする会話が聞こえてきます。
銀行員さん 「届出された印鑑をお持ちですか?」
おじさん 「そんなん知らんがな、これじゃあかんのかいな」
銀行員さん 「こちらは使えないので、お手数ですが、届出済みの印鑑をまたお持ちいただきたくて…それとも、紛失されましたか?」
おじさん「家にあるんやろうけどな、はよ言うてくれなぁ!」
悲しみと苛立ち混じりの言葉を残し、おじさんは帰っていきました。せっかく平日に仕事を早く切り上げて、列に並んでやっと手続きできただろうに。1つの印鑑が無いだけでまた来ないといけないなんて、可哀想すぎる。
何事もデータ化されるこの時代、何故かいまだに紙媒体でペッタンペッタンしているのは、考えてみると少し違和感を覚えます。
徐々に印鑑レスにしているものもありますが、まだしばらくハンコから離れることはできないでしょう。
このように、今までの慣習が引き継がれ、残り続けるということがあります。
校則でも、同じようなことが言えます。
じゃあ変えればいいのかというとそんな単純な話でもなく、
校則を変えることによるデメリットも、よくよく見極める必要があります。なので簡単に変えられるものでもないのです。
一旦校則を変えてみたものの、あまり上手くいかず、結局戻す。こんなことが繰り返されてしまうと、先生も生徒も振り回されてしまいます。
そのため校則は、変える必然性が出てはじめて変わるとも言えます。
悪く捉えるならば、なにか問題が起こってからでないと変わらないということにもなりかねませんが…。
しかし、校則として定まっている以上、教員側も生徒側も、納得して守ってゆく必要性があると思います。
ブラック校則というと、生徒目線でイメージしがちかもしれません。しかし実は、教員の中にも、校則に対して納得していなかったり、疑問を抱いていたりする人も一定数いるようです。
納得できない校則があるからこそ、「ブラック校則」という言葉が出てくるのでしょう。
「怠けたいのが、けたいの心」 一時の怠けは一生の後悔に
私は、このようなブラック校則の問題が改善されにくい理由として、先生、生徒双方が持つ、同じ心に着目しました。
「怠ける心、面倒くさいと思う心」です。
たとえば、先生側は「相手に伝わるまで、ちゃんと説明するのが面倒くさい」と思っています。
全員に納得してもらえるよう、その校則やルールの説明、つまり、「なぜその校則を守らなければならないのか」を伝えるというのは難しいです。そのため、「校則で決まっているから」と、とにかく守ってもらうことに専念してしまっているかもしれません。
また、自分も納得いかない校則でも守らさなければならないという責任があります。そんなとき、適当に理由をつけて守らせたり、本心では無い指導をすることがあります。
生徒側は、「納得するまで、理由を聞くことを面倒くさい」と思っています。
それすら面倒くさがるので、理由を聞いて納得がいかなくても「校則を変えよう!」と行動に移すことはもっとありません。気に食わないことには文句をいいながら、渋々従ったり、校則のギリギリを責めてみたりすることが大概でしょう。
その気持ちを仏教では、「懈怠(けたい)」と言います。
懈怠とは、怠け心のことを言い、「面倒なことをしたくない」、「楽がしたい」というような心のことを言います。
このような心によって、面倒なことを後回しにしていると、いつか取り返しがつかなくなって後悔してしまうことがあります。
例えば、私は先日、バイト先で洗い物をしているとき、ふと保存容器のパッキンを外してみると、なんとカビだらけでした。
これは、毎回洗う人がパッキンを取って洗うのがめんどくさいからと、取らずに洗いつづけていたことで、いつの間にかカビまみれになって後悔してしまったお話です。(みなさんも気を付けてください)
ブラック校則の問題も同じように、今ある校則の意義について考えることを面倒くさがり、後回しにすることで、問題は解決しないのです。
そして、何か問題が起こってはじめて、現状の改善が求められるのです。
例えば数年前、八尾市の小学校で、当時小学1年生だった女子児童が熱中症で倒れる事件が起きました。
遠足に行く前から、他の児童より体が小さかったことから児童の母親は、体調不良を訴えたら自分が迎えに行くことや、水筒が空になったら女児にお茶を買わせてほしいと学校側に伝えていたそうです。
しかし当日、水筒が空になっても、「お金を使ってはいけない」という理由から、買うことができず、結局児童は熱中症になってしまいました。
このような事件が起こって、メディアに叩かれてはじめて改善に動き出すようになってしまっているのが悲しい現状です。
つまり、ブラック校則と呼ばれるものが変わらないのは、「懈怠」の存在があるからだと考えます。
切っても切り離せない「怠け心」と上手く付き合っていくには
ではその怠けたいという気持ちを断ち切るためにはどうしたらいいのでしょう?
結論、怠け心は断ち切れません。
校則への怠け心というと「校則を守ることをめんどくさがる」一部の不良生徒がイメージしやすいかもしれません。
しかし、「校則をなぜ守る必要があるのか説明するのがめんどくさい」と思っている教師、また「校則に不満はありながらも、めんどくさいからとりあえず守っておく」という生徒も皆、怠け心を抱いていると言えるでしょう。
怠け心は、先生も、優等生でも誰しも持っていて、無くすことができない心なのです。
このような心は、気合いを出して、がんばろう!などという根性論でどうこうなるものではありません。
目指すのは、懈怠の心を無くすことではなく、その心と、どう向き合っていくべきか考えることではないでしょうか。
学校現場ではよく、校則を守るか否かで、良い生徒、悪い生徒とふるいにかけてしまっていることもあるように思います。しかしよくよく考えてみると、その校則自体が、守る必要性がないものであれば、ただ盲目的に守っている方が馬鹿らしいと言えるでしょう。
そうならないために、まずは誰しもが「怠けたい」という懈怠の心を持っていることを知っておくことが大切です。
そして、その心を持つ自分や周囲が、問題と向き合いたい、実際に行動したいと感じるにはどうすればいいのか、一歩踏み出しやすくなるような工夫をしてみるのはどうでしょうか。
いきなり変えるのは難しいので、まずはちょっとしたところから動いてみましょう。
例えば……
- 先生なら生徒に、校則についてどう思っているか聞いてみる。
- 生徒なら、不満や疑問のある校則があれば、なんでその校則があるのか考えてみる。
- 保護者なら、社会での経験を強みに、学生時代には気づかなかった校則への疑問を、自分の子どもや先生にぶつけてみる。
私はなにも「今の校則を変えていく」ことが、絶対的に正しいことだとは思いません。
自分の懈怠の心と向き合った上で、校則の意義について考え、「変える必要がある」と判断したものは変えていく必要があります。
ただし、合理性のあるものは残していいと思います。
ブラック校則の問題は、校則の存在自体が悪いわけではありません。時代に合わせて、どういうルール作りをしてゆくかということが、ポイントとなってくるように思います。
次回は「ブラック校則、どうやって変える?」という疑問を、私の経験も元にして考えていきたいと思います。