半ひきこもりだった僕が、仏教で劣等感を超える自信を得たエピソード

「20代からの仏教アカデミー」スタッフのyu3です。

僕は今、仏教を学べる講座に参加したり、仏教の内容をやわらかくシェアするための朝活を開催したりしています。そこでは年間200名以上の人と知り合い、初対面の人にも自分が仏教を学ぶようになった理由や、仏教にはどんなことが教えられているのかなどを話しています。

これだけ聞かれると「さぞyu3は、話好きな人、行動力のある人、自信のある人なんですね」と思われるかもしれません。しかし高校時代の私は、劣等感を抱き、同級生とさえ満足に会話もできず、対人関係からひたすら逃れ、半ひきこもり状態でした。

そんな自分が仏教を学んだことで劣等感が自信へと変わり、初対面の人とも仏教の話ができるようになりました。なぜ仏教を学んだことで劣等感を自信に変えることができたのか。その経緯をお話しします。

半ひきこもりの高校生活

僕は小学生のときはいわゆるやんちゃ坊主で、友達と給食の早食い競争をしたり、授業中に大声で叫んだりしていました。みんなの注意を引くことで、自分はクラスの人気者だと勝手に思っていたのです。

しかし中学に入ると、別の中学校から来た知らない人にどう話したら仲良くなれるのかがわからなくなりました。話しかけても自分を受け入れてもらえなかったら恐い。そんな思いが先行して、知らない人との接触は極力避けて、小学生のころから知っている友人とばかり話していたように思います。

高校は、隣の市の高校へ入学。一応、地区1番の進学校でした。この選択が人生の大きな分岐点になったのです。

隣の市の高校だったので、自分の中学からその高校に進学したのは10名弱。しかもその中で小学生からの一緒の古株は1人のみでした。その彼と同じクラスならまだよかったのですが、何せ8クラスあるので(1クラスは理数科なので実質7クラス)彼と一緒になれるはずもなく、僕のクラスは全員知らない人ばかりになってしまったのです。

しかもクラスの人はみんな、自分よりずっと垢抜けていました。田舎の高校でそう思うのだから、僕の当時の見た目は相当ヤバいレベルですね。話も面白くて、リアクションもうまい人ばかり。スポーツもみんな得意そう。入学早々、劣等感にさいなまされました。

はじめは何とか1人でも友達つくりたいなと思っていました。けれど拒絶されるのが恐くて、一向に話しかけられず。友達ができないのもつらかったですが、何よりつらかったのは見た目が僕と同レベルくらいで、友達作りに苦労していたHくん(とても失礼ですが)にも友達ができたことです。いよいよ教室で1人取り残されてしまいました。

教室にいても誰も話せる人がいないので、休み時間は始業ぎりぎりまでトイレにこもってました。昼休みに1人で教室で弁当食べるのも苦痛なので、外の公園のベンチへ。カラスに見守られながら弁当を食べていました苦笑

授業が終われば、すぐに学校を出て家に向かいます。自分の部屋が安住の地。部屋ではアニメやマンガ、テレビ鑑賞に没頭しました。そういえば高校の同級生と休みの日にどこかへ遊びに行ったことは、一回もなかったですね。中学時代の同級生には何度か誘われてカラオケに行きましたが、音痴でノリが悪くて、メンバーから外されてしまうという悲劇が…。

学校に行ってなかったわけではないのですが、学校に行っても誰ともコミュニケーションせず、休みの日は一歩も外に出ず。「半ひきこもり」の状態でした。

劣等感を克服できないまま大学へ

結局、高校では卒業まで半ひきこもり状態を抜け出せませんでした。進学先は地元の国立大学。「晴れて大学生になったんだ。大学でこそ友達をつくろう」と思ったものの、学科の集まりでは1人も声をかけられないまま撃沈。大学でも授業と家との往復、家ではアニメ・漫画・テレビ三昧で終わると思っていました。

そんなときに別の学科の唯一の知人から声をかけてもらい、キャンパスで話をしました。その知人は大学で何か哲学らしきものを学び始めたらしく、何気ない会話の中で“大学で勉強して働いて生きていくのは何のためか、考えたことはある?”と聞かれました。

「何だよ、その唐突な質問は。冗談か?」と思いましたが、知人がちょっとマジメな顔つきだったので僕もいつになくマジメに考えてみました。

それまで自分は、将来どういうことをしたいのか、マジメに考えたことはありませんでした。通いやすく偏差値もそこそこの大学に行こう。数学や物理がわりと得意だから、それが生かせて就職にも有利な学科にしよう(ちなみに工学部の機械工学科でした)。それくらいにしか人生について考えていませんでした。

そんな僕に“生きていくのは何のためか、考えたことはある?”という問いはあまりに突飛な問いにも思いました。けれど将来をマジメに考えていなかった自分は危ういかもしれないとも感じました。「哲学を学び始めてそんな質問をしたってことは、何かそれなりの答えを知っているんだろう」と思い、彼からその答えは何か聞いてみたのです。

生きる意味をマジメに考察

僕は劣等感の強い人間です。勉強はそこそこできてはいたけど、コミュニケーションは満足に取れず、スポーツもダメで見た目もダメ。そんな自分が生きるのは何のためか、真剣に考えたことはありませんでした。

もし本気出して、自分が生きている意味は何なのかを真剣に考えていたらどうだっただろう。ただでさえ劣等感が強く、実際も劣った人間だから、そんな自分にこれといった存在意義はないだろう。オリンピックに出るとかノーベル賞を取るとか、何か偉業を成し遂げられるとは思えないし、自分の趣味や特技を生かして人に感銘を与えることもできない。アニメ・ゲーム三昧になりそうな大学生活での劇的な変化も期待できない。考えれば考えるほど、暗く沈んでいく…。

僕と似た境遇で、僕以上に深く自己を見つめていった人は、やがて存在意義に絶望し、自殺してしまう人もいるかもしれません。でも僕はアニメや漫画が面白いと感じていて、それ没頭しているときは嫌なことを忘れられる。情けなくもアニメや漫画が存在意義に絶望してしまうことを止めてくれていたのです。

それはそれでよかったのかもしれない。でも果たして自分の生きている意味、存在意義などあるのだろうか。疑問は膨らむばかりでした。

存在意義を知り、劣等感を超える自信を手に入れる

そんな好奇心半分・不審半分の僕に、知人は「どんな人にもこれ一つ果たしたならば『生きてきて本当によかった』と喜べる目的がある、とお釈迦さまは断言されているんだよ。一人一人にそんな大事な目的があるから、生きていることには大切な意味があるし、その目的を果たすまではどんなにつらくても自殺してはならないんだ」と話したのです。

お釈迦さま? ああ、彼の学んでいるのは哲学といっても仏教哲学なのか、とわかりました。そのお釈迦さまが一人一人に大事な目的があると言っている?劣等感が強くて大した特技もなくて、他人を満足に喜ばせた経験もない僕にそんな大事な目的があるとはとても思えませんでした。それでもそんな目的があるのならハッキリわかるまで聞いてみたいとも思い、続けて話を聞いてみました。

その結果、仏教で説かれていることは本当に論理的な内容であること、論理的であるだけでなく一人一人に生きているときに果たすべき大事な目的があること、その目的あるがゆえこんな僕にも存在意義があることもわかったのです。

僕だけでなく僕以外の一人一人にも果たすべき大切な目的がある。生きる意味がある。
「人生、何をやってもむなしい」
「何をしたら後悔のない人生を送れるのかわからない」
「これといってやりたいこともないけれど、死にたくないから生きている」
「自分の存在意義がわからない」など、
世の中には悩み苦しみ、むなしさを抱えている人たちがたくさんいます。その人たちにも存在意義のあることを伝えたいと思うようになりました。

周りより見た目がダメだと思う劣等感はなくなっていませんが、それをも上回る存在意義を知らされたことが自信につながりました。その自信から機会があれば仏教の内容を少しでもお話ししたいと思い、初対面の人ともコミュニケーションをしています。

大学時代に仏教を学んでいなければ有り得なかったことで、初対面の人にも普通に仏教の話をしている変わりぶりに自分自身も驚いています。高校時代の同級生が今の自分を見たら、めっちゃ驚くでしょう。

知らされた人生の指針を特に同年代の人に偏見なく伝えていきたいと思い、20代仏教アカデミーのスタッフにしてもらいました。

身近な話題に触れながら、仏教に説かれている人生の指針を書いていきたいと思います。