これまで「ダ・ヴィンチと仏教シリーズ」では、ダ・ヴィンチの人間観・宗教観についてまとめてきました。
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今回は少し趣向を変えて、ダ・ヴィンチとお釈迦様が考える「美女」とは何か?について書いていきます。
ダ・ヴィンチの女性の肖像画から美女の条件探ってみよう
まずはダ・ヴィンチから。
「モナリザ」を始め、ダ・ヴィンチの描いた女性の肖像画には一つの共通点がありました。
それは何でしょう?以下の3枚の女性を簡単に比較してみたいと思います。
画像1 モナリザ(1513−1519年)
画像2 ジネヴラ・デ・ベンチの肖像(1474年頃)
画像3 美しき姫君(15世紀後半)
一枚目は、言わずと知れたダ・ヴィンチの傑作、モナリザ。1513年頃描き始め、その後亡くなるまで修正を重ねたと言われています。三枚の女性を比べてみると、微笑んでない女性もいるので、モナリザ・スマイルは、やはり独特の印象がありますね。
ニ番目の作品は、ダ・ヴィンチが初期に描いた女性で、モナリザとは対照的に、能面のような無表情が印象的です。
三枚目の作品は近年、ダ・ヴィンチの真筆ではないかと推測されている、「美しき姫君」。何でも、最新のデジタル画像解析によって、ダ・ヴィンチの指紋と一致したそうです。横顔の作品ですが、凛とした品性ある人柄が伝わってきます。
さて、これらの女性の共通点は何か?といっても、すぐには分からないかもしれませんね。
ヒントは服装にあります。
ダ・ヴィンチが考える美女の条件とは
実は、彼女たちはいずれも“飾り”を身につけていません。
女性に喜ばれるプレゼントといえば、ネックレスなどのアクセサリーが思い浮かびます。ダ・ヴィンチの同時代の画家も、やはり装飾品を身につけた女性を描いています。着飾ってオシャレをしたい、という欲望は、時代や国が違っても変わらないようです。ルネサンス時代、上流階級の女性たちは、華美な服装に身を包んでいました。
しかし、ダ・ヴィンチは、意図的に女性に装飾品を描くことを避けていました。あるいは、描いていたとしても、最低限の地味なものが多いのです。それには、確固とした理由があります。ダ・ヴィンチの言葉を紹介しましょう。
「私は君に言っておこう、金またはその他金ピカのもので君の人物を飾るがいいと。君はきらめくような青春の美が凝りすぎた装飾のため、その長所が損なわれているのを見ないのか?君は粗野で貧しい布をまとった山の娘が、飾りめかした女より優れた美しさを身につけているのを見たことがないのか?」(絵画論)
ダ・ヴィンチは、女性本来の美しさを損なうような、華美な装飾に対し否定的な意見を持っています。
私たちが、モナリザの微笑に惹きつけられるのも、飾り気のないシンプルな服装がお膳立てをしているからかもしれません。
現代でいえば、たとえば、ネイルアートを好む女性は多いと思います。しかし、ある調査によると、男性の6割以上がネイルアートは好きではないと回答しています。せっかくかわいく見せようとオシャレをしたのに、不快に思われてしまっては残念ですよね。ダ・ヴィンチは、他人視線で違和感のない、洗練された「ナチュラルな美」を伝えたかったのでしょう。しかし、美人の条件は外見だけではないはずです。
お釈迦様の考える美人とは、心の問題?
東洋の偉人、お釈迦様も美女について説いています。仏教にそんなことが教えられているの?と思われるかもしれませんが、「玉耶経(ぎょくやきょう)」というお経の中に、お釈迦様がインド一の絶世の美女と対談したエピソードが書き残されています。
祇園精舎の建立者の一人、給孤独長者。その名の通り、身寄りのない孤独な人に食事を給していた慈善家で、徳のある方と大衆から尊敬されていたが、そんな長者にも過ちを犯すことがあった。
それは息子の嫁選びである。インド一の美女を嫁にすれば息子は喜ぶだろうと思い結婚させたが、それが失敗であった。
嫁の名は玉耶(ぎょくや)といい、大変な美貌の持ち主であったが、本人も美しさのあまり自惚れて身勝手になっていき、家事はおろか女性として人につくすことを知らなかった。朝起きては化粧をして自分のことに専念し、嫁いでやったという自負心から掃除や料理は人任せ。誰が何を言っても従おうとはしない。わがまま放題な嫁をそのまま放置しておけば、どんどん悪化する一方と思った長者は、あらゆる人を教化されるお釈迦様に相談することにした。
お釈迦様を訪ねた長者は、日常の嫁のありさまを伝え、何とかその悪態を改めてもらえるようお願いした。
承諾されたお釈迦様は、翌日、長者の屋敷に赴かれた。
お釈迦様の到着を待ちわびていた長者一同は、そろって礼拝したが、玉耶だけは逃げ隠れ、一向に出てこようとしなかった。
そこでお釈迦様は、仏の神通力を使って、長者の屋敷を、透き通るガラスの家に変えてしまわれたのである。
隠れている姿も丸見えとなった玉耶は、ついに諦めて出てくるしかなかった。
しぶしぶ姿を現した玉耶に、お釈迦様は諄々と女性としてあるべき姿を説いていった。
「玉耶よ、容姿だけが綺麗なのは、真の美しさとはいえない。
どれほど、顔形が美しくても、心が汚れている者は醜いものである。
年をとると、ツヤのある髪も、段々白くなり、ハリのある皮膚にもシワが入って衰える。やがて、腰もまがり、手足の自由も奪われてしまう。人間死に直面すれば、生前どれだけ美しかった人でも、見るも無残な白骨に変わり果てるのだ。
肉体の美しさは一時のこと、容姿が衰えれば人は離れていく。それよりも心の美しい女性になって、皆から愛されることこそが大切ではないか」
聞けばうなずかずにおれない話に、段々と玉耶の表情は真剣味を帯びる。
玉耶の心境の変化を読み取られたお釈迦様は、次に世に七種類の婦人がいることを説き明かされる。
〈七婦人〉
1 母のごとし
母親のように、食事や衣服にも気を配り、愛情深く接する妻2 妹のごとし
妹が兄を尊敬するように夫を敬い、心が通じている妻3 善知識のごとし
すべての人を真の幸福に導く仏教の先生のように、夫を善き方に向かわせる妻4 婦のごとし
女性としての節操を守り、夫と対等の立場で仕える普通の妻5 婢のごとし
使用人が主人に仕えるように夫の名に従い、自己主張せずにつくす妻6 怨家のごとし
夫を恨み、犬の吠えるようにケンカをしている。家事や子の養育をする心もなく、親もそしって当たり散らす。仇の家に住まいしているような妻7、奪命のごとし
昼も夜も怒りの心を抱き、夫が財産を持っていれば、人を雇って奪い取り、もしくは殺害して命をも奪おうとする妻「玉耶よ、そなたはこの七婦人のどれだと思われるか。」
己の美貌を磨くことしか考えず、家事も放棄し、夫をないがしろにしていた玉耶は、
「私は怨家であり、奪命の婦人でありました」とこれまでの悪態を振り返りさめざめと懺悔した。
お釈迦様は、
「過ちをしない人はいない、過ちを改めることこそが立派で大事なことなのだよ」と優しく諭された。その後、玉耶は仏教を聞くようになり、後世、婦人の手本となったと伝えられている。
(著者意訳)
さて、この玉耶のエピソードから、外見の美しさよりも、心の美しさを磨くことが大切であることが分かりますね。
見かけの美人よりも、心の美人の方が長く人から愛され大切にされます。心を磨くと同時に、ダ・ヴィンチが教えるように、あなたらしさが美しく引き立つような服装センスも身につければ、よりハイレベルな美人になれるでしょう。
大事なのは着飾った華やかな外見ではありません。内から溢れ出る「ナチュラルビューティー」です。もちろん外見を磨くのも大事ですが、中身が残念だと仕方ありません。内面から鍛えていく努力が必要です。
女性のみならず男性も見習っていきたいですね。
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