司法試験漏えい問題に見る 人間の慈悲の盲目さ

明治大法科大学院の教授が、司法試験の問題を教え子に漏らしていたと告発され、ニュースでも大きく取り上げられています。

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2006年に現在の新司法試験が導入されましたが、この教授はその時から試験問題の作成に当たる「考査委員」を務めていました。考査委員での経歴も長く、発言力も強かった同教授。その教授が司法試験前に教え子だった20代の女性にみずからが作成に関わった憲法の論文試験の問題を漏えいしたと疑われ、司法試験制度の根幹を揺るがす事態になっています。

司法試験問題の漏えいは国家公務員法の守秘義務違反であり、東京地検特捜部が事件の実態解明に向け、捜査を進めているそうです。

事態を重く見た明治大学は、同教授を懲戒免職処分にする方針を固めました。

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他大の法学部教授からは「恐れていたことが現実になった印象だ。正義を実現する法律家を育てる試験で、こんなインチキがなされ、まじめに取り組んできた学生たちが可哀そうでならないし、許せない」と憤る声も挙がっています。

当の教授は試験問題の漏えいをすれば大問題になることは十分わかっていたはずです。それなのになぜ、このような事件を起こしてしまったのでしょうか?

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「試験に合格させてあげたい」 ゆがんでしまった親心

教授は自分が作成にかかわった問題を女性に解かせた上で添削し、さらに高得点が取れるよう論文の書き方まで指導していました。

教授は「女性が去年の司法試験で不合格になったため、なんとか助けて合格させてあげたかった」と説明をしているそうです。

教授の立場なら、気にかけている教え子に司法試験に合格してほしいと思うでしょうし、去年の試験に不合格で今年は何としても、と教え子の一生懸命な姿を目にすればその思いも一段と強くなりますよね。しかし、その親心が試験問題の漏えいという、ゆがんだ形となって出てしまいました。

こんなことをしてバレれば、自分は教授をクビになるかもしれない(実際に懲戒免職になりそうです)、女子学生はたとえ試験の合格点に達していようとも合格を取り消されるかもしれない、ということは考えればすぐわかることのはずです。

仮に告発されなかったとして、女子学生が司法試験に合格をしたとしても、本当に心から喜ぶことができるでしょうか。一時の哀れみのために女子学生は「自分は不正で合格した」という負い目を引きずって生きることになります。それでは、試験に合格できず苦しんでいたよりも、もっと長期に渡って女子学生を悩ませ、苦しめることにならないでしょうか。

時として私たちの「助けてあげたい」という行為は、相手を助けるどころか不幸な結果を招くことがあるのですね。

人間の慈悲は盲目の慈悲

仏教は“慈悲”の教えと言われます。慈悲は今日でも「慈悲深い人」とか「無慈悲な人」と使われていますね。

仏教で慈悲とは抜苦与楽(ばっく よらく)とも言われ、「相手の苦しみを抜いてあげたい(抜苦)、幸せな気持ちにさせてあげたい(与楽)」心のことと教えられています。

特に、母親の幼い子どもへの慈悲というのはとても大きいですね。子どもが少しでも体調が悪そうにしていれば「大丈夫かな。何か悪い病気にかかったのではないかな」ととても心配し、そわそわします。「子どもの苦しみをとってあげたい」心でいっぱいになり、自分のこと以上に心配し、食事ものどを通らなくなるかもしれません。

また、たとえ自分が苦しい思いをしても子どもが喜んでくれれば幸せ、という気持ちにもなられますよね。自分は仕事で疲れて休みたくても、子どもの喜ぶ顔が見たくて遊びに連れてってやる両親も多いでしょう。

親の子どもへの慈悲だけに限らず、人間にはこの慈悲の心があります。慈悲深く人と接することはとても大切ですし、相手が苦しんでいるのに「もっと苦しめばいい」なんて思うのはまさに無慈悲であり、そんな心であってはいけませんね。

ところが、仏教では人間の慈悲は「盲目の慈悲」である、と説かれているのです。

盲目とは、先が見えないということで、自分のやった行為がゆくゆくどういう結果をもたらすのか分からないということです。先に述べた、相手を喜ばせたいと思ってやったことが時として、かえって相手を苦しめることになる、ということです。

末通らない慈悲が相手を苦しめる

上記の試験問題漏えいは言うに及ばず、子どもを溺愛した親が、必要以上に欲しいものを与えすぎて子どもに道を誤らせてしまうということもよく聞きます。

世界的アクション俳優ジャッキー・チェンの息子(ジェイシー・チャン)が昨年、麻薬所持で逮捕されました。なんと、ジャッキー・チェンは息子にチャージ上限無しのクレジットカード3枚と8桁の預金通帳を渡していたそうです。

そんな大金を持たせれば息子のもとへわらわらと悪い人たちが集まってきて悪いことをそそのかされるのは想像に難くないのですが、やはり私たちの慈悲は盲目になってしまうのだと知らされます。

慈悲について詳説された古典・歎異抄には、人間の慈悲について

いかに愛(いとお)し不便と思うとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終なし

と書かれています。どれだけ相手のことを愛し、かわいそうに思っても、人間の慈悲の救いは一時的で相手を長く幸せにすることはできない。だから、この慈悲は末通らない慈悲である、ということです。

もちろん、どうせ不完全な慈悲だからといって、相手を思いやることをやめていけないですよね。そこは誤解してはいけないところです。慈悲深く人に接することは大切であり、無慈悲であってはなりませんね。

決して人間の慈悲は完全ではない、盲目であるという欠点を弁えてこそ、自分の行為は本当に相手を幸せにすることなのかと熟考するようになります。他人事と思わず、自分のこととしても受け止めていきたいですね。