Daヴィんちです。
レオナルド・ダ・ヴィンチシリーズで記事を投稿していますが、今回は趣向を変えて、最近公開されたヒット映画を通して、「喪失感」について書いていきます。
中国・韓国・台湾でも出版され、100万部ベストセラーとなった『世界から猫が消えたなら』(川村元気著)が、ついに映画化。
2016年最も泣ける感動映画として反響を呼んでいます。
(映画『世界から猫が消えたなら』公式サイト より引用)
私も劇場に足を運んで見ましたが、世界遺産のイグアスの滝の圧巻の描写など、数々の美しいシーンに見とれてしまいました。
印象的な光景もさることながら、主演の佐藤健と宮﨑あおいの迫真の演技も素晴らしかったです。
『世界から猫が消えたなら』あらすじ紹介
さて、肝心のストーリーですが、佐藤健演じる「僕」が、余命わずかと、医者に無情なる宣告をされるところからスタートします。
死を眼前に突きつけられた青年の前にふいに現れたのは、なんと自分にそっくりの「悪魔」でした。
「悪魔」は「僕」に1つの取引を持ちかけます。
それは「命1日分と引き換えに、この世から1つのモノを消す」という、延命のための交換条件でした。この世から消すモノの決定権は悪魔にあり、「僕」には選ぶ権利はありません。
悪魔の気まぐれにより、これまで当たり前に存在していた携帯電話が消されてしまいます。
そして、次に消されたのは映画。
映画がこの世からなくなっても生活に困るということはない、だから別にいいだろ、と半ば強制的に映画が世界から姿を消します。
しかし、問題は、単に映画がなくなるだけではありません。
映画がきっかけで出会い、仲良くなった親友や恋人とのかけがえのない記憶まで周囲の人たちの中から消滅してしまうのです。
大切なことは、失われた後に気づくもの
昨日まで仲良しだった親友や恋人が、突然赤の他人になってしまう…。
もしあなたにそんなことが起きたら、
大切な親友や恋人が突然いなくなってしまったら、どう思われるでしょうか?
あまりにも悲しく、大きなショックを受けて、立ち直れないかもしれません。
映画のタイトルにある「猫」は、単に動物の中の1つではなく、主人公にとっては、「親と子の家族の絆を結ぶ象徴的存在」でした。
だから、「僕」にとって、世界から猫を消されては困ります。
それは家族の崩壊を意味するからです。
私たちは一人一人、この「猫」に価する、「大切な何か」を持って生きています。
それが長い時間をかけて丁寧に築き上げたものであればあるほど、それを失うショックは計り知れないものになります。
主人公の「僕」のお母さんは、こう言っていました。
「ほとんどの大切なことは、失われた後に気づくものよ」と。
強烈な喪失感で「ぽっかり穴があいてやる気起きません」
喪失感、それは自分にとって「大事な何か」を失った後に経験する感覚をいいます。そしてこの喪失感には、いろいろなものがあります。
PADSという言葉をご存知でしょうか?
日本語に分かりやすく訳すと「アニメ燃え尽き症候群」というそうです。
自分が思いっきりはまっていたアニメの放送が終わると、もう生きていけないくらいの憂鬱感が募り、うつ状態になってしまう症状をいいます。
好きな漫画やドラマが終わると、切ない気持ちになるのも同じことです。
この他にも、喪失感は、その人の立場によっても、いろんな角度からやってきます。
たとえば、女優の倉科カナさんは、主演ドラマを終えた後に、強烈な喪失感に襲われたといいます。
ドラマの終了、それは、一時的に作られた家族や友人との別れであり、演じ続けてきたもう一人の自分との別れでもあります。
役に入り込めば入り込むほど、終わったときのギャップ、現実に引き戻される度合いが強いのかもしれません。
テレビの中の世界というと華やかなイメージがありますが、倉科さんは、人知れず苦悩を抱え、「どうしよう、ぽっかり穴があいて、やる気が起きない」と告白しています。
[blogcard url=”http://a.excite.co.jp/News/entertainment_g/20150319/Narinari_20150319_30626.html”]歓喜の中、1人呆然と立ち尽くした
先日、人生で1番楽しかったときはいつ?という質問をされました。
私はこの問いに対し、中学生の頃、学校祭で合唱の指揮者をして「最優秀賞」を獲得した経験を思い出しました。
私の中学校は大変合唱が盛んで、中でも指揮者は独創的な指揮を行うことで有名で、いわゆる学校の花形的存在でした。
私は憧れの指揮者となり、学校祭に向けて放課後はクラス一丸となって歌の練習をし、音楽の先生とピアノの伴奏者、指揮者の私、3人だけの朝練の時間もあるほど、日々没頭していました。
そして、学校祭を迎えた当日、全力でやりきり、「最優秀賞」という最高の結果が告げられた際、辺りは紙吹雪が舞い、誰かに泣きながら抱きつかれていました。
しかし…。
周囲の興奮とは裏腹に、私は1人呆然と立ち尽くし、「終わってしまった・・・」と心が暗くなったことを覚えています。
学校祭が過ぎると、何とも言えない寂寥感が漂います。
輝いていた自分、夢中になっていた自分が、もうここにはいない衝撃。
あなたもそんな経験をしたことはないでしょうか?
喪失感の本当の原因は『無明』
大切にしてきたものを失ってしまったとき、夢中で打ち込んでいたものが終わりを迎えたときに虚しくなるのは、私たちの心そのものが暗いからなのです。
その暗い心は、仏教では『無明』と名付けられています。
大事なものの支えがあったり、夢中になれるものがあったりすると心の暗さに気付きませんが、それが失われたときに喪失感や寂寥感となって現れるのです。
ちょうど夏に行われる花火大会のように、闇夜にたくさん花火が打ち上がっているときには明るさに心を奪われ、その闇の暗さに気づきませんが、ひとたび終了すると闇が露わになるように、私たちが明かりにしている幸せが消えると、否応なく闇の心に対峙させられます。
闇夜に花火を打ち上げるのは、いっときの誤魔化しに過ぎず、根本的な解決にはなりません。
仏教では、無明の解決方法が説かれ、無明を解決してこそ、喪失感をも乗り越えて、力強く生きていけるのだと教えられています。
この暗い心というのは、PADSのようにウツ病のような精神的な病とは異なります。
もっと深い人間存在そのものの根っこにかかわる問題です。
仏教を学んだことで、私が今まで知りたかった喪失感の本当の原因を知ることができ、仏教の学びはまさに青天の霹靂でした。
是非、ご興味のある方は、無明の解決方法がわかるところまで、続けて学んで頂けると幸いです。