ポリティカル・コレクトネス。最近よく叫ばれるようになった言葉です。
どういう意味なのか、最近の風潮から、よい側面と弊害について考察したいと思います。
「ポリティカル・コレクトネス」とは
ネットを中心に通称ポリコレと、頻出するようになった「ポリティカル・コレクトネス」。
聞くようになった割に、ちゃんと理解している人は、そこまで多くないように思います。
Politicalが政治的、Correctnessが正しいこと、ということで政治的に正しい表現や言葉のことを指します。
日本語で政治的に正しい言葉遣いとも呼ばれる、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、容姿・身分・職業・性別・文化・人種・民族・信仰・思想・性癖・健康(障害)・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す
ポリティカル・コレクトネス(Wikipediaより)
あらゆる側面から中立的な表現である、ポリコレ。日本だと、「看護師」という言葉が分かりやすいでしょう。
ナースさんはこれまで「看護婦」と当たり前のように婦人の「婦」を入れていました。
しかし現在、男性ナースもいるわけです。
女性しか就けない職業でなくなった今、「看護婦」という表現は不適切ということで、「看護師」になったわけです。
このように過去にあった差別・偏見意識が急激に変わってきた結果、昔ながらの表現が見直されてきています。
その中で「ポリティカル・コレクトネス」が叫ばれるようになったわけです。
この傾向はアメリカから、日本はじめ世界中に広がりを見せています。
メディアは差別的な表現が規制される風潮に
ポリコレによる影響は主にメディアを中心に表れています。
例えばテレビ。昔であれば放映できた内容でも、今は放映した瞬間、批判の声があがるようになりました。
最近話題になったのは、フジテレビの「とんねるずのみなさんのおかげでした」のスペシャルでのことでした。
石橋貴明さんの「保毛尾田保毛男(ほもおだ ほもお)」というキャラクターが批判され、テレビ局が謝罪する事態となりました。
濃い青髭にピンク色のほお、ホモという表現を名前に入れ、同性愛者をバカにしているという批判が殺到したのです。
現在は同性愛者をはじめとするLGBTへの法改正が進む現在において、こういった差別的表現は、ポリコレの観点ではアウトです。
放映した局への批判、そしてネットでの炎上などが確実に起こるようになりました。
性別だけでなく、国や政治の問題では、ヘイトスピーチへの規制も強くなっています。
特定の国や人種への批判をしている人が、Youtubeのアカウントが強制削除されたなど、規制が強くなっています。
これまで差別を受け続けた人からすると、偏見が少しづつかもしれませんがなくなり、生きやすい世の中になってきていることでしょう。
これもダメ?振りかざされる「ポリコレ棒」
その一方で、やりすぎではないのかという声もあがっています。最近ですとこんなニュースがありました。
ジェームズ・ガン監督が『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』第3弾をクビ…過去ツイートが問題視され
映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズを手掛けてきたジェームズ・ガン監督が、過去に行ったツイートの内容が不適切だったとして、同シリーズ第3弾をクビになった。
過去2008年~2012年頃に小児性愛やレイプなどをジョークにしたTwitterの投稿が話題となり、ディズニーから解雇が言い渡されたというニュースです。
彼の発言は決して肯定されるべきものでは、もちろんありません。
企業の立場からすると、イメージ損失という立場からそういう判断を下すのもよく分かります。
しかし、現在のつぶやきではなく、過去のつぶやきを現在に意図的に掘り出し、公にしたことで問題になったという経緯には、注目せねばなりません。
過去の問題や失言を掘り起こし、ポリティカル・コレクトネスの名の下、断罪することが可能なのです。ネット上では、一方的に叩けることもあり、炎上の火はとても早いです。こういったケースが最近増えてきました。
この現象に関連して、「ポリコレ棒」という言葉もあるくらいです。
「ポリティカル・コレクトネス」に少しでも反論するとすぐにたたかれることから、「まるでポリコレは人をたたくための棒だ」といわれるようになり、日本では「ポリコレ棒」と呼ばれるようになりました。
差別をなくすために作られた「ポリティカル・コレクトネス」が、いつしか“強者”を過剰にたたくための武器として利用されるようになってしまったのが「ポリコレ棒」なのです。
トランプ氏就任から聞くようになった「ポリコレ棒」ってどういう意味?
ネットが普及するこれまではテレビや新聞などのメディアで発言権を持った人が”強者”でした。
しかし、ネットが普及する今、これまで弱者と虐げられていた人が発言権をもつことができ、力を強めています。
そして”強者”のあら捜しをし、こき下ろすという動きが表れているのです。
ポリティカル・コレクトネス自体の精神は素晴らしいものの、その主義を悪用することで、発言の規制、牽制ができるようになったのです。
適切な範囲であればよいのですが、行き過ぎの結果は、ある種の監視社会さえ作り出しかねません。
有無同然という振り子の関係
「ポリティカル・コレクトネス」によって、差別はされにくい風潮ができ、今まで虐げられていた人は地位が一定は向上しました。
しかし、一方で公平性の名の下、なんでも許されていた時代から、あらゆる関係者を意識することで、規制のかかった表現にならざるを得ません。
万能に思えた「ポリティカル・コレクトネス」も、行き過ぎると、表現を規制する名目に利用されてしまいます。
この傾向がより過激になっていくと、つまらない作品しか見られなくなってしまうかもしれません。
このようにどちらの選択をとっても満足できない世の実態を、仏教では有無同然と教えられています。
有っても無くても同じく然り。
有っても無くても、同じ苦しみ。
本質は苦しみであることを漢字4字で教えられました。
ポリコレが有ることによって、幸せのように見えたときもあったかもしれませんが、続きません。
本質は苦しみだからです。
ポリコレなど気にせず、好きなことを発言できたとき、楽しいように思えたかもしれませんが、これも続きません。
本質は苦しみなのです。
どちらにしたって、人は不満をもち、不安を抱えます。
平等を得て、自由を失い、自由を得て、平等を失う。この平等と自由の振り子の繰り返しが、歴史です。
大小あれ、これが今後も繰り返し続きます。
仏教の観点から、世の中の国や政治、メディアの動きを見てみると、世界が違って見えますね。