こんにちは、熱海夕です。
今日は大人気ブロガーちきりんさんのコラム「ちきりん的“大人”の条件」を紹介します。
日本では20歳を迎えると自動的に大人として認められ、さまざまな権利とそれに伴う義務が課せられます。
では、精神的にはどうでしょうか。
「あの人は若いのに大人だ」と言われる人がいる一方で、「あの人はいい歳して子供っぽいなー」とか「精神年齢が低い」と言われる人もいます。
「精神的に大人である」とはどういうことか、若い人の中には悩んだことのある人もいるのではないでしょうか。
精神的に大人である条件
ブログの中でちきりんさんは、精神的に大人であることの条件として
- 不満を感情で表現するか、否か
- 理解できないものがあると、理解しているか否か
- 多様な他者を理解しているか、否か
の3つをあげています。
今回は、この中の3つ目「多様な他者を理解しているか否か」をクローズアップします。
「自分の言動に対し、きっと相手はこう感じてこんなレスポンスが帰ってくるから、それに対して自分はこのように感じるだろう」という、「相手が打つ手を想像できる」ことが大人の階段を上ることだ、とちきりんさんは書いています。
しかし、人それぞれ、ものごとのとらえ方、その感じ方・考え方はまったく違います。
相手の打つ手を想像するには、まず「相手は自分とは違う」ということを理解する必要があります。これが子供には難しいのです。この、多様な他者を想像できるか否か、という点が大人と子供の大きな違いです。
では、自分と外の人はなぜまったく異なる考え方をするのでしょうか。
行為によって尊くも賤しくもなる
それは、それまで生きてきた中で「このような発言をしたら、こんな答えが返ってきた」「こんな行動を取ったら後々このような結果になった」という過去の経験を元に、その人の思考が形作られてきたからです。
仏教を説かれたお釈迦さま(ブッダ)も同様のことを教えられています。
仏教では私たちの行為を業(ごう)と説かれ、お釈迦さまは
人間は生まれによって尊いのでも賤しいのでもない。その人の行為(業)によって尊くも賤しくもなる
と言われています。はじめから特定の価値観を持っている人はおらず、過去の業によって思考パターンが決まるのです。
兄弟構成が同じだったり、出身地が同じだったりする人は似たような考えを持たれていることが多いですよね。
とは言っても、過去にどんな行為をしてきたかはやはり人それぞれなので、その人独自の思考が生まれます。
「完全にわかり合うことはない」と理解する
一人一人がその人だけの考えを持っています。いわば、自らが生み出した世界に住んでいるようなものです。それぞれの世界が触れ合うことはありますが、完全に重なり合うことはありません。
私たちは、自分の気持ちをわかってほしい、考え方を理解してほしい、受け入れてほしいと切実に願いながら、決してわかり合えない孤独な世界に住んでいるのです。
ちょっと説明したくらいで、自分の意見や考えを理解してくれる人がいれば、それは本当にありがたいことです。相手がわかってくれなくて、当然なのです。
「自分と他者は違う。完全にわかり合うことはない」と理解した上で、「歩み寄ろう、受け入れよう、和して行こう」と決意できるのが「大人」なのです。
反対に「自分の気持ちをわかってくれて当然」「考えを受け入れてもらって当たり前」と思っている人は、いつまでたっても「子供」なのですね。
精神的な子供を卒業して、相手との違いを認識し、考えを受け入れられる大人になっていきたいですね。