映画『シン・ゴジラ』からゴジラという「死の象徴」を考える(ネタバレあり)#シンゴジラ

虚構でありながら、あまりにも現実を描き切った名作でした。

ネットを中心に大変な話題を起こしている映画「シン・ゴジラ」。

御多分に洩れず、私も職場の同僚や友人からも勧められて、見てみたところ、本当に面白くて驚きました。ゴジラ好きでもないし、エヴァの熱烈なファンというわけでもない。いやそもそも映画好きというほどでもない、そんな私ですら、面白いと唸らせられました。比喩じゃなく、しばらく震えが止まりませんでした。

この感動が冷めやらぬうちに、確実に歴史に残る作品「シン・ゴジラ」を、仏教要素も交えながら、どのように考えられるか、考察してみました。

(※ネタバレも含まれますので、まだ見られてない方はお気をつけください。見ましょう)

映画『シン・ゴジラ』公式サイト
シン・ゴジラ公式サイトトップページのキャプチャ:2016/08/14現在)

ゴジラをどう考えるか

映画では登場するキャラクターたちはどれも魅力的でした。主人公の長谷川博己演じる、矢口蘭堂内閣官房副長官はもちろん、それ以外のチョイ役含め、全員が印象に残る人たちでした。俳優陣が豪華なのはもちろん、キャラクター自体も味があって素晴らしかったです。特に、市川実日子が演じた、尾頭ヒロミ環境省自然環境局野生生物課課長補佐(長い)が人気を博しています。

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ただその中でも絶対に外せないのが、ゴジラそのものです。

続編という形ではなく、地球上ではすべての人が初めて見る生物として登場したゴジラ。その姿はまさに異形。そして、「GODZILLA」(呉爾羅)というコードネームがつけられていますが、それ以外は謎。

映画の序盤で出る第一形態は、僕達が知っているゴジラとは全く異質な不気味な物体がそこにはいました。

そして二足歩行をし始め、進化を遂げ、僕らの知っているゴジラに近づきます。

しかし、その想像も遥かに超える不気味さを有するのが三度目の進化を終えた第四形態。あまりにも不気味な姿でした。

恐ろしいのは外見だけじゃありません。何よりも強い。自衛隊の陸空軍などから、アメリカの最新兵器を投入し、あらゆる手段を尽くしても、まるでビクともしない

このままではゴジラに駆逐されて終わってしまうのかと思わされるくらい絶望的。

そんなゴジラが象徴するものは何だったのだろうか」、フッと見終わった後に、考えさせられます。皆さんも考えたのではないでしょうか。

色んな意見があると思いますが、私は、ゴジラは「死」そのものの象徴ではないかと考えます。

死の象徴としてのゴジラ

本映画はあまりにリアリティがあり、現実を忘れてしまいがちですが、あくまでフィクションです。

この映画のキャッチコピーでも語られています。

現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)。
シン・ゴジラ公式サイトより)

このキャッチコピーも色んな意味合いが込められていそうです。作品中だけではなく、視聴する日本人と、シンゴジラという映画の対立構造でもありそうです。しかし、ここではゴジラそのものが虚構であるということで、語らせていただきます。

あれだけ強大のものはフィクションでないと困ります。しかし虚構となる以上、伝えたい何かがあるはず。

ではゴジラは何だったのか。何を伝えんとしたかったのか。それを考えさせるのもこの映画の狙いの一つだったのかもしれません。

よくゴジラは原爆など核兵器の恐怖の象徴として扱われています。当初のシリーズでは、ビキニ環礁での核実験をモチーフに生み出された怪獣なので、そこは切っても切り離せません。

ただ今回の映画、核の恐怖もそうなのですが、同時に震災の恐怖についても訴えられてたように思います。多くの区民が避難するシーン、津波に逃げ惑う人々がリアルに描かれています。震災から数年の年月を経たからこそ表現できているのだと思います。規制が厳しい中でも表現したのは伝えたいことがあったからに違いありません。

核や天地災害に共通する根本的な恐怖、それが「死」です。すべてを内包した究極的な恐怖です。

そして死の恐怖を決定的に表されたが「シン・ゴジラ」の映画の結末でした。

ゴジラは結果的に、血液を凝固させられ冷却機能不全に陥り、日本はじめ国連軍に倒されました。しかし、死んではないないんですよね。

あくまで凍結されているだけ。つまりいつ復活するかは分からない。

病気ならば、一時的な病が起き、治療を受けて、取り除かれたとしても、再発の恐れがあります。震災も一度生き抜いたとしても、もう二度と震災が起きないわけではありません。いつか違う形で訪れます。そして病気を避けられたとしても、天地災害に遭わなくとも、避けられないのが死です。

主人公矢口が、ゴジラを凍結させて一段落ついた後、

「これからもゴジラと向き合わなければいけない」

というセリフが象徴的でした。

死ぬまで何度でも襲ってくる恐怖、それがゴジラであり、死そのものなのではないか。そう思わされたのです。

死という無常に対立する人間という現実

単なる続編を示唆するブラフだろ、と笑うのは簡単ですが、せっかくの名作の味わい方としては浅いものがあります。ゴジラが何を象徴したものかを考察した時に、考えられたのが死でした。

さて、そう考えた時、紹介したキャッチコピー。

現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)。
シン・ゴジラ公式サイトより)

つまりゴジラはフィクションですが、死は紛れも無い現実という対立構造とも捉えることができるのではないでしょうか。

VSで語るなら、フィクションは現実には勝てない。ゴジラは現れなくとも死という最大の現実に倒される。

そういう意味では今は凍結状態にある、のは作中のことだけではないんですね。

その恐怖に向き合わなければならない、それを作品から教えてもらいました。

これが仏教でいう無常観なのです。

死という最大の無常を見つめることが仏教では、学びの一歩目として教えられます。

この無常観は、よく近しい人の葬式などで知らされるものですが、それだけではなく、シン・ゴジラのような映画からも学ばさせられます

他にもまだ考察できそうなので、また記事を更新したいと思います。改めて映画も見に行きたいですね。