あなたは、これまでの人生で
「人生、虚しいなぁ」
「自分って、存在している意味あるのかな?」
「生活がつまんなくて、ため息ばっかり」
などと感じられたことはないでしょうか。
今ではSNSが浸透し、いろいろな人とコミュニケーションができるようになりました。しかし同時に、人生の虚しさや寂しさを際立たせるのもSNSです。
たとえばLINEを使って問題になるのが既読スルーや未読スルー。
メッセージを送っても相手から返信が来ないとなれば、寂しさを感じます。
スルーされる相手が増えるとほど「こんな自分は誰からも必要とされていないのでは」とさえ思ってしまいますね。
さすがにスルーされることはなくても、一生懸命打ったメッセージの返信が
「今日はありがとうございました。
またよろしくお願いします。」
とかだけだったら、「え?それだけ?私って、こんな軽く扱われる存在なの?」とショックを受けます。
コミュニケーションツールが発達したことで、あなたも、より虚しさ、孤独感を抱いていると思います。
この虚しさ、空虚感の原因とは何なのか。空虚感の原因と解決方法を私自身の体験、そして心理学・仏教哲学の観点から迫っていきます。
恋愛マンガと恋愛ゲームが支えてくれた学生生活
いきなりのディープな告白ですが…。
私は高校時代、引きこもりがちで、一人も親友といえる存在がいませんでした。
そんな寂しい高校生活を支えてくれたのが週刊少年ジャンプに掲載されていた恋愛マンガ「いちご100%」でした。
そのマンガの主人公はルックスもイマイチで、何の取り柄もない冴えない男子。
ところが!
その主人公のまわりになぜか美少女たちが集まってくるのです。
しかも美少女たちはみんな主人公に好意を寄せるという、男子にとってはまさに夢のような展開。モテない男子にとってのバイブルであり、私も夢中で読んでいました。
読んでいるときは主人公を自分に重ね合わせて悦に浸れます(主人公と私の誕生日が一緒だったとわかったときは運命を感じました)。
しかし…。
その喜びは長続きしません。
マンガを読み終えれば現実に強制送還され、余韻にひたりつつも強烈な「虚しさ」がこみ上げてくるのです。
マンガの主人公がモテたところで、自分には何一つ変化はない。
また明日から学校に行けば誰からも声をかけられず、黙って過ごす日々が待っている。
一人の美少女に声をかけられることさえ夢のまた×100 夢である。
さらにディープな告白ですが…。
大学時代には恋愛シュミレーションゲームの代名詞である「ときめきメモリアル」にハマりました。
学力やセンスなどの主人公のステータスを上げることで、それまでは見向きもされなかった女子生徒から一目置かれるようになります。
意中の女子生徒の好みを把握して希望の場所へデートに誘うことで心象をアップさせていき、エンディングでその子から告白されればガッツポーズです。
けれど…。
いくら意中の子に告白されようと、それはゲーム。
現実の自分のステータスは全く上がらず、相変わらず誰からも見向きもされません。やがて襲いくる空虚感にさいなまれるのです。
ポッカリと胸に穴が空いたような虚しさ
ここまで読まれて、ドン引きしている方も多いと思います(特に女性)。
しかし、ここまではひどくないとして苦笑
女性の皆さんもこんな虚しさを抱えておられると思います。イケメンに壁ドンされることを夢見ながらも、現実の自分にがっかりし、虚しさを感じている方と心境は同じなはずです。
マンガやゲームに限らず、理想と現実の大きなギャップを目の当たりにして虚しいと感じられた方ばかりでしょう。
それなら理想と現実を埋めるための努力をすればいいですよね。理想に近づけば虚しさから解放されるはずです。
しかし…。
理想や夢に向かって努力をし、充実した時間を過ごしているはずなのに、それでもポッカリと胸に穴が空いたような虚しさに襲われることがあるのです。
この虚しさは「燃え尽き症候群」とか「空の巣症候群」という症状として扱われることもありますね。活動的だった人が急にやる気を失ってしまうのは虚しさが原因でしょう。
この虚しさは深刻です。
なぜなら、努力もせずにマンガばかりを読んで虚しさを感じている人にとっては、努力することで空虚感から解放される可能性は残っていそうですが、努力をした人にとっては、いくらがんばっても充実感を得られないとわかってしまったのですから。
この空虚感の原因は何なのでしょうか。
フランクルが提唱した「実存的空虚」
オーストリア生まれの精神科医で、世界的ベストセラーである「夜と霧」の著者ビクトール・フランクルは私たちの感じる虚しさを「実存的空虚」と提唱しました。
「何かむなしい」「どこかこのままではいられない」……そういった「むなしさ」の感覚を、フランクルは、「実存的空虚」と命名しました。
「実存」というのは、人間の生々しい存在そのもの、といったニュアンスの言葉です。 生々しいリアルな存在、現実存在です。この「現実存在」の真ん中の二文字をとって「実存」と呼んだのです。
日々の忙しい毎日の中で漂っている漠然とした「空虚感」。それが、「実存的空虚」です。
諸富祥彦(2012).「『夜と霧』ビクトール・フランクルの言葉」 コスモスライブラリー
自分は間違いなく存在しているのに、まるで自分は存在していないかのようにむなしい。そんな思いを感じられたことのある方がほとんどだと思います。
実存的空虚はさらに具体的には
何かに不満があるわけではない。
飛びぬけて幸せだとは思わないけれども、自分のことを特に不幸せだとも感じない。
人並みには幸せな人生を送れていそうな気もしている。
けれどもその一方で、何かが足りない。どこかむなしい。満たされない。つまらない。「心の底から満たされる何か」がない、と心のどこかでいつも感じている。
「私の人生って、こんなものなのかな」
「このままずっと続いていって、そのまま終わってしまうのかな」
「こんな毎日の繰り返しに、いったいどんな意味があるんだろう」そんな、思わず発せられる心のつぶやき、そして、心の真ん中にぽっかりあいている「心の穴」──それがフランクルの言う「実存的空虚」です。
諸富祥彦(2012).「『夜と霧』ビクトール・フランクルの言葉」 コスモスライブラリー
と書かれています。
「まさに私のことだ!心を見透かされている」
と思われた方もいるのではないでしょうか。
空虚感をもたらす「存在意義の曖昧さ」
「こんな毎日の繰り返しに、いったいどんな意味があるんだろう」とあるように、空虚感を抱くのは人生の意味がはっきりせず、自分の存在意義が曖昧であるからです。
この虚しさが深刻化すると
「こんな虚しい人生、生きていても意味がない」
「自分には生きている価値がない」
とまで思うようになり、果ては自殺にまで発展しかねないのです。
実際に、フランクルに宛てられた大学生からの手紙には
私はここアメリカにいて、自分の存在の意味を絶望的に探し求めている同世代の若い人たちにぐるりと回りを取り囲まれています。
私の親友のひとりは、まさにそのような意味を見出すことができなかったために、つい先日自らいのちを絶ちました。
と書かれてあり、自分の人生の意味がわからず、存在意義を見出だせないことがいかに苦しいことであるかわかります。
存在意義が曖昧なままでは、生きる力は湧いてきません。反対に生きる意味がわかれば、どんな苦難も乗り越えられるのだとニーチェは以下のように語っています。
なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える
(著)ヴィクトール・E・フランクル,(訳)霜山徳爾(1985).「夜と霧」みすず書房
なぜ生きるか、生きる意味を知ることで空虚感から開放され、生きる力が溢れるのです。
存在意義を曖昧にしている根本無明
それほど大事なのが存在意義。しかしそう簡単にわかるものではありませんよね。
仏教では私の生きる意味、存在意義をわからなくさせている心があることを説かれています。それは「根本無明(こんぽんむみょう)」といわれる、意識よりもずっと深い心なのです。
仏教用語。これが根本にあるために現象世界の諸事象が成立し,また衆生は迷いの世界のうちに沈んで輪廻を続けると考えられる。
根本無明が私たちの存在意義を曖昧なものにしていると教えるのが仏教なのですね。
裏を返せば、この根本無明がなくなったときに存在意義がはっきりとわかるのであり、この根本無明をなくすことが仏教の目的であることを、大無量寿経という経典には以下のような言葉で説明されています。
もろもろの生死勤苦の本を抜かしめたまえ
ゆえに、仏教を学ばれることで空虚感の本を知り、虚しさを解消をすることができるのです。
私も仏教を学んだことで空虚感の正体を知り、虚しさに悩まされることはなくなり、充足感のある日々を送ることができています。
空虚感の正体は、古今東西の哲学者が考えてもはっきりとしない根の深い問題であり、一朝一夕にわかることではありませんが、この記事が仏教に関心を持たれるきっかけとなれば大変嬉しいです。