こんにちは、YURAです。
「真田丸」では、いよいよ天皇が豊臣秀吉(小日向文世)の建てた聚楽第(じゅらくてい)を訪れます。その結果、諸大名は帝の前で、秀吉に忠誠を誓う形となりました。
さらに秀吉は私生活でも、長らく求愛していた茶々(竹内結子)を側室として迎え、茶々はまもなく懐妊します。
(あらすじ 第20回「前兆」|NHK大河ドラマ『真田丸』 より引用)
このとき秀吉54歳、初めての子供です。愛する茶々が自分の後継ぎを身籠ったとあっては、秀吉にとって、これほど嬉しいことはありません。その噂はたちまち広まり、民衆にも知れ渡ります。
秀吉は順風満帆、公私ともに幸せを手に入れます。
しかし、ある晩に事件が起こります。
この事件から見えてくる、人間の恐ろしい姿とは。今回も「真田丸」から学んでいきましょう。
聚楽第落首事件とは 「真田丸」20話振り返り
夜も更けたころ、門前に、ある落書きが見つかりました。
それは、茶々のお腹の子は本当に秀吉の子か、という内容でした。
秀吉は、今まで何人もの女性を側においておきながら、なかなか子供ができませんでした。
そのため、この歳になって、やっと子供ができるなんておかしい、と秀吉を揶揄する落書きがなされたのです。
このことを知った秀吉は、怒り狂います。
決してうやむやには終わらせんぞ。書いた奴は必ず厳罰に処す。
わしを侮ったらどんな目に遭うか、思い知らせてやるのだ。
そもそも門番たちが悪い。門番すべてその役を免じ、今すぐ牢へつなげ!
(NHK大河ドラマ『真田丸』第20話「前兆」より)
秀吉は、その日に門番をしていた人だけでなく、門番全員をひっ捕らえて磔にする、と言い出します。
今度のことが許せんのは、何処の誰ぞが、わしの息子を虚仮にしおったんじゃ!
書いた奴を見つけ出し、耳と鼻を削ぎ、磔にした上で首を刎ねる。
それでも許せん。そいつの親類縁者、悉く磔じゃ!
(NHK大河ドラマ『真田丸』第20話「前兆」より)
翌日の夜、17人の門番たちは磔にされました。
さっきまで赤子をあやして、声高らかに笑っていた秀吉が、一瞬のうちに鬼の形相と化し、その怒りは、罪のない命をも奪うことになったのです。
秀吉の姿は、私の姿?
この聚楽第落首事件で描かれている秀吉の言動、あなたはどう思われるでしょうか?
事件と無関係な人の命まで奪うとは、非道卑劣極まりありません。
しかし、
非道卑劣極まりないのは、秀吉に限りません。
人間の言動について「まさか!」と耳を疑ってしまうことが、有名な仏教書である「歎異抄」に書かれてあります。
さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし。
人間というのは、もしそうせざるをえないような状況に置かれたら、どんな振る舞いもしかねない、どんなに非道なこともやりかねない、ということです。
先日、サイクリングが趣味の父は、バスとの接触事故を起こし転倒してしました。
幸い大した怪我ではありませんでした。その代わり、新調したての自転車と自転車用の特別なウエアが傷ついたため、今、事故を起こしたバス会社に賠償を求めている最中です。
いつもは温和な父ですが、大切にしているものを壊されたことが許せず、自分が損をしないように、むしろ、どうしたら得をするかということばかり考えているのを見て、恥ずかしさを覚えるほどです。
けれど、よく考えてみると、私も過去に同じ経験がありました。
自分が接触事故で怪我をしたとき、すぐに逃げた相手の学生に対し、随分長くうらみを持っていました。
また、買って間もないお気に入りのイヤーマフラ―にコーヒーをかけられたときは、怒りのあまりに理性が飛んで、ひどいことを言ってしまった経験もあります。
私たちは時に怒りのために冷静さを失い、平静なときにはとてもやらないような恐ろしいことをしてしまうのです。
この秀吉の卑劣な言動を見て、「なんてひどいやつだ!」と思っている私たちも、秀吉ほどの権力を持っていないから、簡単に人を殺したりしないだけであって、もし権力を持っていたら、同じことをしていたかもしれません。
怒りは相手や周囲を傷つけ、自分をも傷つける
仏教では、そんな怒りを「瞋恚(しんい)」といわれます。
さらにお釈迦さまは、瞋恚を「三毒」の1つに挙げられ、 私たちを特に苦しめる心であると教えられているのです。
【三毒】
人の心を毒する三つの根本的な煩悩。
貪欲・瞋恚・愚痴。
「怒りは敵と思え」とは徳川家康の遺訓ですが、「真田丸」でも、怒りのあまりにエスカレートする秀吉の行動は、周囲を困惑させ、恐れさせました。
秀吉ほどの行動には出なくとも、私たちも、怒っているときは、ついつい気づかないうちに、言動に嫌みが入ってしまいます。それによって相手や周囲を傷つけ、さらには自分も傷ついてしまったということもあるでしょう。
隠そうとしても、なかなか隠れてくれない。
怒りの心とはそれほど厄介なものですが、怒りのままに行動してしまうと反感を買い、多くの敵をつくることになってしまうことも言うまでもありません。
「自分は正しい」の思いは、本当に正しい?
では、怒りの心が噴き出してしまったとき、相手を傷つけず、自分も傷つけないにようにするには、どうすればいいのでしょうか?
第3代アメリカ合衆国大統領であるトーマス・ジェファーソンは、このように言っています。
腹が立ったら、しゃべる前に十数えなさい。
すごく腹が立ったら、百数えなさい。
数を数えるなど、とにかく気を紛らわせ、落ち着くことを勧めています。
どうにもこうにも抑えられない怒りであっても、冷静になって、怒りの原因を突き詰めると、大したことのないことに怒っていた、ということばかりなのです。
先の秀吉の横暴の原因は門前の落書きです。
いくら揶揄されたとはいえ、たかが落書きです。茶々やお腹の子に実害が及んだわけではないのであり、第三者的に見れば、大したことのないことで秀吉は憤慨している、とわかりますね。
そもそも、怒りが出てくるのは、「自分が正しい」という思いが前提にあるからです。
「私は正しい。アイツがひどいことをした。ひどいことしたアイツに正義の鉄槌を下してやる!」と。
でも、「自分が正しい」という思いは本当に正しいことなのでしょうか?
先の例で見たように、実は、単に自分の都合を優先させたいから怒っている、ということが多いのです。
相手の事情も考慮すれば、自分にも非があったとわかり、怒りを収められることもあるでしょう。
数学者で有名はピタゴラスは
怒りは無謀をもって始まり、後悔をもって終わる。
と語っています。
怒りを散らして、ようやくおさまったときには、あたり一面が焼け野原になっている。「何でこんなつまらないことで怒っていたのか。何でこんなひどいことをしてしまったのか」と必ず後悔するのが怒りです。
心が落ち着いたときに後悔しないように、まずは数を数えて冷静になり、一度、自分自身に怒りの原因を問いかけていきたいですね。
そうすれば怒りは自ずと鎮まっていくでしょう。