観客動員数1000万人を超え、最近スペインの国際映画祭でも最優秀賞を受賞した映画『君の名は。』。
スピード感のあるストーリー展開や美しいグラフィックに加えて、RADWIMPSの歌う主題歌が話題になっています。
ミーハーな筆者も公開後すぐに観に行きましたが、ストーリーもさることながら、映画のシーンと見事に合っている歌詞に感動し、まるで「めちゃめちゃ豪華なPVを観ている感覚」になりました。
映画では「前前前世」「スパークル」「なんでもないや」という曲調の全く異なる3つの曲が使われていましたが、実は歌詞を掘り下げると「ある共通したテーマ」があることに気づきます。そして実は、そのテーマはそのまま映画のテーマでもあるのです。
今回は、その3つの歌詞に共通するテーマを、仏教的な視点から掘り下げていきます。
仏教に通じるRADWIMPSの歌詞
実は、哲学的で時に鋭い現実批判を、リズミカルな韻を踏んで展開する野田洋次郎さん(ボーカル)の書く詞には、仏教の内容からくるものが多くあるんです。
「DADA」という曲には有名な『南無阿弥陀仏』という言葉が出てきますし、「おしゃかしゃま」に至っては曲名からして仏教ですよね。
歌詞の中身にある、絶対者を「祈ったり」「拝んだり」する宗教全般に対する批判も、仏教に通ずるところがあり、野田さんは仏教をかなり詳しく勉強されているのでは?と思わせられる所があるのです(たまたまかもしれませんが)。
そんなわけで、『君の名は。』の主題歌も、仏教的な視点から味わってみると、より深くて面白い。ということでさっそく解説をしていきます。
『前前前世』『スパークル』『なんでもないや』を読み解くキーワード「多生の縁」
アップテンポの「前前前世」、楽曲調の「スパークル」、純バラードの「なんでもないや」。
一見まったく異なるこの3曲では、共通して「時を超えた、大切な人とのつながり」が歌われています。
人と人とのつながりは、普通、生きている間につくられ、やがて消滅するものと思われています。小学生の頃からの大親友や100歳まで長生きした夫婦、といっても、やはりある時から始まって、ある時で終わるもの。
しかし、RADWIMPSのこの曲では、そうした「時」を超えた、生まれるずっと前からの人と人とのつながりが歌われます。
例えば『前前前世』では、
はるか昔から知る その声に
生まれてはじめて 何を言えばいい?
君の前前前世から僕は 君を探し始めたよ
そのぶきっちょな笑い方をめがけて やってきたんだよ
はるか昔から知るその声、と言っていながら、「生まれてはじめて」とも言っています。
これは僕が僕として/君が君として生まれるはるか昔から、二人は出逢ってきたということを歌っています。
同じことを、
僕らタイムフライヤー 君を知っていたんだ
僕が 僕の名前を 覚えるよりずっと前に
『なんでもないや』より
とも歌っており、僕が僕の名前を覚える(=赤ん坊として生まれて物心つく頃)より、ずっと前に君を知っていた、と、やはり生まれる前のことをいわれています。
そんな生まれる前からのつながりのことを仏教では「袖振り合うも多生の縁」と教えられています。
これは今日、小学生でも知っている有名なことわざですが、正しい意味を知る人は少ないのではないでしょうか。
実際に誤字ランキングでも、「袖振り合うも『多少』の縁」と書いてしまう人が多いのです。
意外と知らない?「袖振り合うも多生の縁」の正しい意味
改めて「袖振り合うも多生の縁」の意味を確認しましょう。
袖振り合うも多生の縁とは、知らない人とたまたま道で袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁であるということ。
ここに「多生」と「縁」という、大事な仏教のキーワードが2つ出てきます。
生まれてから死ぬまでを一つの生を「一生」といいますが、こうした一生をはるか昔から何度も何度も繰り返してきたのだよ、と仏教では教えられ、これを多くの生=「多生」と言われます。
次の「縁」とは、「人と人とのつながり」という意味です。
本来の縁の意味は、原因と結びついて結果を生み出すもの、という意味ですが、それが転じて、人とのつながりを「縁」というようになったのです。
よく縁結びのお寺なんかに行って五円の賽銭を投げるのも、「ここに来てお願いすると、結婚相手との縁を結んでくれる(つながりをつくってくれる)」ことを念じてしているわけですね。
この「袖振り合うも多生の縁」には、正しくは2つの意味があります。
「袖振り合うも多生の縁」の2つの意味とは
1つは、袖が触れ合っただけの些細な出会いでも、遠い過去のどこかの生で、何かしらの縁がなければ起きないことなのだ、ということです。
ちなみに、袖振り合うも「他生」の縁とも言いますが、これも今の生ではない、過去生きていた「他」の生でのご縁ということなので、同じ意味ですね。
遠い過去から一生を超えた人と人とのつながりがある、これが1つ目の意味です。
例えば野球観戦で、たまたま隣にいて一緒に喜びを分かち合うこと、あるいは電車で足を踏まれ、罵りあって傷つけあうこともありますよね。
しかしそんな「たまたま」隣にいたと思ったその人も、電車で「偶然」足を踏んできたあの人との出会いも、遠い過去のどこかで何かしら「縁」があったからこそ、どんな形であれ、いま再び出会った、ということです。
そう想うと、なんだか目の前の知らないひとさえ、大切にしたくなってきます。
今自分の目の前にいる名前も知らないあの人は「懐かしい知人」なのです。
ましてや、これだけ多くのひとが生きているなかで、今現在、家族や友達、恋人となっている人とは、前世によほど深い縁があって再び遇えたのでしょう。
RADWIMPSが歌う、
銀河何個分かの 果てに出逢えた
その手を壊さずに どう握ったならいい?
『前前前世』より
果てしない過去から、ようやく再び逢えた喜びに、その手を壊れるほど強く握りしめてしまう気持ちも、そうした多生の縁を知ると起きるものなのかもしれません。
「スパークル」の歌詞からみえる『一蓮托生』
袖振り合うも多生の縁の2つ目の意味は、袖が触れ合うという些細なことでも、一生を何度も繰り返すその間に、その人と再び出会う縁となるということです。
過去の縁が今の些細な出会いを生む、ということだけでなく、今の些細な出来事が縁となって未来の出会いを生むのだ、ということもまた教えられているのです。
先程の例でいえば、野球観戦で、たまたま隣にいて喜びを分かち合ったこと、あるいは電車で足を踏まれ、罵りあって傷つけあったことが、遠い先のいつか、自分とその人とを結びつけるキッカケとなるということです。
ですから「袖振り合うも多生の縁」という言葉は、遠い過去から、遠い未来までの、人と人とのつながりを表す言葉です。
そういう仏教の教えを知ると、今目の前にいる大切なあの人、過去から何度もあってきたあのひとと、未来でも家族、友人、恋人でありたい、という気持ちが起きてくるのです。
RADWIMPSの『スパークル』でいえば、
そんな世界を二人で 一生 いや 何章でも 生き抜いていこう
という気持ちが生まれます。
一生をドラマの章にたとえて、そんな一章(一生)をこれから先、何章(何生)でも一緒に生きていこう。
遠い過去から何度も出会っては別れ、出会っては別れを繰り返してきた大切なひとと、また次の生でもあいたい。
今の一生で終わる関係ではなく、未来ずっと一緒にいられる関係になりたい、という強い願いがこめられた歌となって味わえるのです。
そのことをまた仏教では「一蓮托生」という言葉で教えられています。
この一生で本当に幸せになった2人が、一生が終わったあと、次の生で幸せな世界に一緒に生まれられる、と教えられています。
次号は、『スパークル』の歌詞をより掘り下げて、このことについて詳しく解説をしていきたいと思います。