今日も自炊して、1人で美味しく頂いたナッチョです。
家で食べるには非常に面倒な「魚」をさばき、塩焼きを食べながら、ふと「ある事」に気が付きました。
「そういえば自分が海を目指した動機は魚の殺生から始まったんだよな。」
私は1つの事象に対し深く考えるちょっと面倒臭いやつなのですが、こればっかりはネタになると思い、さっさと食事を片付け(もちろん感謝を込めて)PCに向かい綴らせていただきました。
今日は「殺生」から始まった私のちょっぴり変態的な生き様を赤裸々に書きます。
初めて魚を「殺した」小学2年生の夏
私は千葉県の柏市という街に生まれ、そこそこ貧乏な家庭の末っ子として育ちました。
夏休みや冬休みなど、長い休みは千葉県の富津市という田舎の祖父の家に預けられました。
祖父と田舎で行うことはただ一つ、自然界との触れ合いです。
山なら竹を切り、竹とんぼや豆鉄砲などを作って遊んだり、川ならみんなで泳いだり。
なんら特別な事ではない、大ヒットゲーム「ぼくのなつやすみ」のような日々でした。
長い休みの中で、祖父と私が最も注力していたことは「魚釣り」です。
ただ、仕掛けが出来上がった物を孫に渡すのではなく、釣り方から締め方、食べ方や捨て方まで一貫して体に叩き込んでくれました。
「締め方」とは、釣った後の魚をすぐ血抜きして、後で美味しく食べる手法です。
血抜きをする瞬間はとても残酷です。
血が周囲に飛び散り、魚はバタバタ逃げようと暴れるので、まさに生き物から食べ物に変わる瞬間を目の当たりにします。
時には生きているエサを捕らえ、そのエサで魚を釣り、釣った魚をみんなで美味しくいただいて臭いが残らないように、しっかり後始末をする。
釣り方から捨て方までの一連の流れによって、私は生命について深く考えるようになったのです。
幾星霜の命の上に私たちは生きている
突然ですが、皆さんは魚を捌いた事はありますか?
少し残酷な話ですが、魚をさばく際に出てくるものって血や内蔵だけではありませんよね。
もちろん無数の白子や卵も出てきます。
紛れもない、本来生まれてくるはずの生命です。
もし自分が目の前の魚を食べようと手に掛けなければ、新しく産まれてくる生命は無事に成体まで育ったのかも知れません。
さらに、食料となる魚を釣るためにミミズやゴカイを生きたまま魚のエサとするので、魚の口に入る食物連鎖全てに言えます。
野菜に例えても同じです。
土に元々住む虫を殺すか住処を追いやって土壌を作り、畑が出来ても殺虫剤を撒いて収穫にいたる。
つまり生き物が食べ物として人間の口に入るまでに、沢山の犠牲を払う流れは普遍的ということです。
私は残酷な現実を若干8歳で気付き、「世の中って怖い。そこまで人間って生きていく価値ってあるの?」と罪悪感を抱いたものです。
でも、同じような経験をされた事がある方は、生き物を殺す罪悪感って最初はありましたよね?
殺生の罪悪感から広がった視野と夢
生き物の命を奪うことを、仏教では殺生と教えられています。
仏教ではすべての生き物が平等という考えです。
ですから人間に食べられるために生まれてきたものはありません。
「生きたい」と思っているものを殺して、私達は食べています。
なので、仏教では殺生を悪の一つとして教えられています。
幼いころに体験した殺生によって感じた命の尊さ、しかしながら生きていく為に殺生し続けなければならない人の虚しさに打ちひしがれながらも、多くの発見を与えてくれた海。
そんな「海」に関わる仕事をすれば、もっと大きな気付きを得る事が出来るのではないか?罪悪感の本質を理解できるのではないか?という動機から試行錯誤を重ねた末、貨物船やタンカーの航海士への道を選び、初めて殺生をした10年後、私は船に乗りました。
私たちは知らず知らずの内に日々殺生を繰り返しています。
例えば肉や魚、穀物や野菜を毎日食し、外を歩けば小さい虫を知らぬ間に踏んでいたりする事もあります。
追求すればキリが無いくらい殺生の連続です。
しかし「殺生」は人が必ず通る道です。
人は食べないと死んでしまうし、栄養失調なら仏教すら聞くことが出来ません。
生きる上で、「なにも殺さないで食べていく」という矛盾をどう整理するのか?
単に「良い」「悪い」で判断するのではなく、まずは認識し、思考すること自体が人生において大きな価値になると考えます。
今後も海×仏教の記事を書いていきます。
興味のある方はぜひチェックしておいて下さい。