最近、女優の清水富美加さんが、ある宗教団体に所属していたことを公表し、話題を呼んでいます。
清水さんはNHKの朝ドラ「まれ」で一躍大ブレイク。その後も数々のテレビドラマ・映画で活躍していただけに、突然の引退宣言と「出家します」のツイートに、ファンの間に衝撃が走りました。
人気急上昇中の女優は、なぜ突然、芸能界から姿を消したのか。そして何が清水さんを入信へと駆り立てたのか。
今回は、芸能人が『宗教』を信じる心理について分析してみました。
洗脳上等?清水さんの本音から分析する芸能人が『宗教』を信じる心理
とある宗教法人に出家し、芸能界を引退した女優・清水富美加さんの告白本『全部言っちゃうね』が、2月17日に出版されました。
タイトル通り過激な内容に、ネット上では清水さんを心配する声や、所属していた芸能事務所に対する批判など様々な声があふれています。どんな内容だったのでしょうか。
例えば、第二章「死にたかった7年、死ななかった7年。」では、芸能界での仕事のストレスから、ガムテープで口と鼻をふさぐ、カッターで手首を切るなど、何度も自殺未遂をした過去を告白しています。
それほど仕事を頑張っても、もらえる給料は月5万円。そこには交通費や、家賃は含まれておらず、生活できないほどの貧困に追い込まれたといいます。
精神的にも肉体的にも追い詰められた最後の救いとして、半ば強引に芸能界をやめ、入信する決意をしたと告白しています。
「それは洗脳されたのでは?」という周囲の声に対し、
洗脳上等だよって感じですよね。『洗脳されてるんじゃなくて、(洗脳)されるのを選んでるんだ』って気持ち
とまで書いています。
かくして清水富美加あらため、「千眼美子」として新たな(?)スタートを切ったわけですが、そもそもどうして華やかな芸能界に身をおく女優が、宗教に転じたのか。
意外にも、芸能人の宗教騒動って多いですよね。例えば、X JAPANのTOSHIも一時期、華やかな音楽シーンを離れ、宗教にハマっていました。公になっていないだけで、実は宗教法人に所属している芸能人は相当数いると言われます。
芸能界で活躍していると聞くと、美貌にも才能にも恵まれ、お金も地位も十分に手にしたいわば「成功者」であり、羨ましいな、と普通は思います。その中のどれか一つを半分でも分けてくれたら、と思うくらい幸せそうに見えますが、「そんなひとがどうして宗教に?」と思うのは当然かもしれません。
売れっ子芸能人だからこそ、『宗教』にすがりたくなる?
しかしここには、重大な誤解があると思います。
それは「美貌や才能や、お金、地位や名誉があれば幸せだろう」という誤解であり、「そんないろいろなものに恵まれているひとは宗教なんて入らないだろう」という誤解です。
ヒト・モノ・カネ、能力や容姿に恵まれていることは、実は幸せとは無関係であることが分かっています。
ダニエル・カーネマン(ノーベル経済学賞を受賞した心理学者)やデレック・ボック(ハーバード大学の学長)など、世界的研究者らが「何がひとを幸福にするのか」を研究した結果、幸福と相関関係があると思われるのは、せいぜい恋人とのエッチや、宗教的信条を持つこと、友人との会話や、食事くらいだ、と言っています(ここまで雑な言い方ではありませんが 笑)。
そしてそれらの幸福も、わずかしか続かないことを明らかにしました。
私達の日常でも、上記のようなことは実感があるのではないでしょうか。小学生のころは500円だった月のお小遣いが、中学生では1000円、高校生では3000円になりましたが、小学生のころと高校生のときを比べて6倍幸せだ、とは思いません。
社会人になってからは、経済的な自由度は昔よりはるかに高くなりましたが、それでも何倍も幸せになった感じはしません。むしろ「昔に戻りたい」なんて思うものです。
それは、お金を得るためには同じくらい犠牲にするものも多く、得たとしても使う額も大きくなるから、実質的にはあまり多くもらっている気もしないからかもしれません。
華やかな芸能生活にだってその裏があり、辛い、逃げたい、やめたい気持ちは当然あるのだと思います。いやむしろ、幸せになれそうなもの ―お金や知名度など― を多く手にした芸能人ほど、「これだけのものを手にしたのに、なぜかそんなに幸せじゃない」という事に気がつくのかもしれません。
そして「一体なにを手にしたら幸せになれるのだろう」、そんな悩みから『宗教』というものに心が向くのでしょう。テレビの向こう側にある他人の目を気にしながら自分を飾って生きる芸能人ほど、宗教法人は、ありのままの自分でいられる、安心できる場所に映るのかもしれません。
ほんとのところは本人にしかわかりませんが、「売れっ子芸能人がどうして宗教なんて信じるの?」ではなく、そんな人だからこそ信じようと思うのではないかと感じます。
「不安はなくならない」信じることの限界
引退時のコメントのなかで、清水さんは以下のようなことを言っています。
神とか、仏とか、あの世とか、確かめようのないもの、この目で見たこともないものを、私は信じ、神の為に生きたいと思いました。
確かめようのないものを信じる。すごい言葉です。
しかし、「確かめようのないもの」を「疑いなく信じ抜く」ことは容易ではありません。確かめようがないから「ひょっとしたら違うのでは」「もしかしたら…」と疑いの心、不安な心がでてきます。神であれ、あの世であれ、自分の将来の夢であれ、何かを信じようとする心理の背後には、必ず「本当かな…」「「ひょっとしたら…」という不安が存在します。
そしてもしも、それを最後まで「信じなければならない」とするならば、最後まで「不安がなくならない」ということになります。
大学受験で、たとえ試験のあと手応えがあったとしても、合格通知がくるまでは「もしかしたらうっかりミスがあるかも」「今年は簡単だったから合格基準点が高いかも」という不安はなくなりません。だから、不安な心のまま、自分の合格を信じるしかないのです。
あるいは、行方不明の子供の帰りを信じて待つ親は、本当に帰ってくるまではずっと不安です。
同じように、不確かなことを信じつづけることは、本当はとても不安で、だからこそ、芸能界をやめてまで出家した清水さんの決意はすごいなと思うのです。
不安な芸能界をやめて安心できる場所を探しても、ほんとうのところ、安心はできないのかもしれません。信じる行為に、不安はつきものだからです。
宗教と『仏教』の違い
さまざまな宗教と仏教との対比でいうと、仏教は、最後まで「信じ続ける」必要があるものではありません。不安な心をおさえて信じ続けることも不要な、疑いなくハッキリ知ることがゴールの世にも奇妙な宗教です(笑)
だから、確かめようのないものを信じようとすることを『宗教』と定義するならば、仏教は『宗教』ではありません。反対に、仏教を宗教とするならば、他のものは宗教とは呼ばないのが適切かもしれません。
でも、だからこそ私は学んでいます。
日本のお釈迦様と仰がれる聖徳太子が、
世間虚仮(せけんこけ) 唯仏是真(ゆいぶつぜしん)
訳:この世にある物事はすべて仮の物であり、仏の教えのみが真実であるということ
といったように、不確かなものばかりの世のなかで、確かなことが仏教には教えられています。
その確かなことを、本当に「確かだった!」とハッキリするところまで学んでゆくものが仏教なのです。