「訃報」
ある朝、私の日常を一変させた一通のメール。
突然若くして亡くなった同僚の死から知らされたことについて、前回は有名な仏教の文章を通してお伝えしました。
(前回)
30代で急死した会社の同僚。突然死はいつでも、どこでも、年齢に関係なくやってくる
今回は同僚の死から3ヶ月経ち、あらためて知らされたことをお伝えしていきます。
「人が周囲で死ぬこと」に次第に麻痺していく私たち
小さい頃、私は寝る前に「寝ている間に自分がもし死んだら、目が覚めたら私はどこにいるのだろう」と思うと、怖くて眠れなくなることがありました。
母に「人は死んだらどこへいくの」と聞いたことがあるのですが、「死んだら焼かれて何もなくなっちゃうんだよ」という答えが返ってきて、底知れぬ恐怖を感じたこと覚えています。
ニュースで「死」という言葉を聞くたび恐ろしくなり、なるべくなるべく考えないようにもしました。
子どものとき、こういった思いや不安を抱いたことのある方は、いらっしゃるのではないでしょうか。
さらに子どもよりもっと幼い赤ちゃんは、どうなのでしょう。
さすがに私も記憶にはないのですが、実は赤ちゃんが眠いのに泣き叫んで寝ない理由は「赤ちゃんは、寝たら死んでしまうのでは、という恐怖を感じている」と解説する心理学者もいます。
フロイトなどの有名な心理学者の説によると、赤ちゃんにとって眠るということは、自分の存在がこの世から消えてしまうことと同じであり、それに対して大きな恐怖心が呼び起こされる、と言われています。
つまり、赤ちゃんにとっては「眠る=もう目を覚まさない」であるため、眠りに入ることが怖い、というわけです。
逆に、時間の認識が広がってくる4~5歳くらいになって「眠っても目が覚めれば明日がくる」ということを理解できるようになると、この恐怖心はだんだん消えていきます。
参照:フロイトが説く赤ちゃんの本音|あなたにも分かる泣き叫んで寝ない理由
URL:https://babynet.jp/865.html
しかしご紹介した記事にもありますように、大人になるにつれ、このような死に対する恐怖は和らいでいきます。
それは時間の感覚が身につくと共に、一日生きれば生きただけ、「今日も死ななかった」経験を積み重ねていくからです。
「お箸を使いこなす」経験を積み重ねてきた大人は、「今日は居酒屋で接待だけど、お箸ちゃんと持てなかったらどうしよう」とはなりません。
同じように「今日も一日死ななかった」という経験を何年も積み重ねてきた私たちは、一日生きれば生きただけ「今日も生きておれたんだから、明日も生きておれるだろう」という根拠の無い自信を積み重ねていきます。
明日になれば、その次の日は死ぬとは思えない。
その次の日も生きていられる気がします。
これを繰り返す限り、私たちの感覚は、自分の命日が365日のどこかにあるとは思えなくなっていく。
実は自分は永久に死なないと腹底では思っているのが私たちなのです。
ニュースで毎日、殺人事件や痛ましい事故の話を聞いて、「死」は周りでは起こることは分かっています。
けれど自分の身の上には起こらない、と根拠のない信念を抱いているのです。
しかし、現実はどうでしょう。
この世に死なない人はありません。
一日生きれば生きただけ、死に近づいているのです。
同僚が教えてくれたのは「老少不定」
仏教に「老少不定」という言葉があります。
人の寿命に老若の定めのないこと。
この記事の前編でご紹介した「白骨」にもこの言葉が出ていました。
されば、人間の儚き事は、老少不定のさかいなれば
いつどんなきっかけで、吐いた息が吸えなくなるときがやってくるかもしれない。
死と紙一重な世界で生きているのが、私たち人間なのです。
幼少期にはこの真実を恐ろしく思っていた私も、30年近く「今日も一日生きられた」という経験を積むうちに、「明日は間違いなく生きていられる」とかたく信じるようになってしまいました。
また、そうしないと明日の予定も立てられないし、生きていけないですね。
しかし同僚が突然死したとき、幼少期に感じた「死」への恐怖が再び吹き上がってきました。
平安時代の高僧・恵心僧都は
後の世と、聞けば遠きに似たれども、知らずや今日も、その日なるらん
と残しています。
後の世とは、死んだ後のこと。
「死んだ後」と聞くと、あと何十年も後にやってくることのように思いますが、同僚は「知らずや今日もその日なるらん」となる日が必ず自分に来ることを、教えてくれたのです。
3ヶ月も経てば同僚が亡くなる前と同じように、何事もなかったかのように仕事は動いていきます。会社という組織は誰かがいなくなっても動くようにできているものです。
それでもある日、ふと、同僚の名前が書かれた過去の書類を見つけたり、誰も座ることがなくなった席を見たりすると想うのです。
もし私が今日死ねば、毎日のように来ているこの職場には二度と来ることができなくなり、忘れ去られてしまう日が来ることを。
同僚は「天使」だったかもしれない
原始仏教の経典に、こんな説話があります。
ある人が死んで地獄に堕ち、閻魔大王の前へ突き出されました。
閻魔大王はこんな質問を罪人に投げかけます。
「お前は生きているとき、三人の天使に会わなかったか?」 罪人は天使に会ったことなんて無いと答えます。
すると閻魔大王は、その罪人をにらみつけ、大きな声でこう言いました。
「お前は人間界にいたとき、老人をみなかったか。
頭は白く、歯はぬけ、眼くぼみ、肌にシワが寄り、身体ふるい、気力衰え、うめきつつ、杖にすがって歩むもの、これこそ第一の天使じゃ」
次に
「汝が娑婆にいた時、病人を見たことはなかったか。
身体やせおとり、傷み、立居振舞も自由にならず、飲食便通にすら人の助けを待ち、終日褥の中にあってうめき苦しむもの、これこそ第二の天使じゃ」
さらに、閻魔大王はこう問いかけます。
「次にそなたは、死人を見なかったか、
命終わって息永く絶えれば、身体は壊れて、まるで枯木のようになり、野原にすてられれば鳥獣に食われ、 棺に納められ火葬されれば、一つまみの白骨となる。この者こそ第三の天使じゃ」
最後に
「このようにお前は、人間界にいたとき、三人の天使にあいながら、人生を深く考えることもなく、いたずらに月日を過ごして人生を終えてしまった。今地獄へおち、苦しみを受けているのは、自身の自業自得だぞ」
と怒鳴りつけると、罪人として獄卒に命じて地獄の奈落へ送られるのです…
読んでいると、罪人が自分に思えてきます。
夏のホラー特集が比べ物にならないくらい、恐ろしい話ですね。
「天使」と聞くとキリスト教をイメージされる方が多いと思いますが、仏教でも天使が出てきます。その天使とはファンタジックな存在ではなく、閻魔大王の使者であるシビアな現実、つまり老・病・死のことです。
人間は「死」を見つめたときに、はじめて人間らしい心になると言われます。
今晩自分が死ぬと分かったら、今日一日自分がしようとしていることを、本当に一日かけてするだろうか。
こう考えると、今日という一日に自分がすることが、一生という限られた命を費やしてやることなのか、と自分に問いかけるようになります。
自分にいつか訪れる「死」をみつめることは、人生を深く考え、幸せになるための第一歩。
これは物語の中の閻魔大王さんだけではなく、お釈迦様が一生を費やして人類に伝えていったことです。
3ヶ月前、亡くなった同僚。
彼のおだやかで優しかった笑顔を思い出すたび、あの同僚は「もし今日が人生最後の日になったら、あなたは後悔しませんか?」と私に問いかけてくれる「第三の天使」だと思わずにおれません。
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