【NieR:Automata(ニーアオートマタ)考察・感想】アニメ4話「遊園地の歌姫」ボーヴォワールが教えてくれる「人類」の正体

命もないのに、殺し合う。」

NieR:Automata(ニーアオートマタ)』は、スクウェア・エニックスより2017年に発売されたアクションRPGゲーム。

累計出荷・ダウンロード販売本数が全世界で700万本を突破している本作は、今年2023年に待望のアニメ化
アニメ作品『NieR:Automata Ver1.1a』は長らく放送中止していたものの、今月7月23日に放送再開が決定しました。
再開に合わせて特番や再放送も続々実施され、待ち遠しいファンも多いですね。

筆者は『NieR:Automata』を数年前から友人にオススメされていたものの、「男性ファンが多そうな作風だしご縁無いかなあ」とスルーしていました。


しかしアニメを見て主人公の2Bさんに「カッコいい!」と一目惚れ。

原作の『NieR:Automata』『NieR Replicant』も履修している真っ最中です。

そんな初心者女ファンの筆者が、アニメ放送再開前のおさらいも兼ねて、物語の序盤で特に惹き込まれたアニメ4話Chapter.4 a mountain too [H]ighを深掘ってみます。

【 NieR:Automata・あらすじ】アンドロイドと機械生命体の戦いを描く、ニーアオートマタの物語

『NieR:Automata(※以降「ニーアオートマタ」と表記)』は遠い未来の地球を舞台にした物語です。

西暦5012年。
突如地球へと飛来してきた地球外生命体「エイリアン」と、彼らが生み出した「機械生命体」により、人類は絶滅の危機に陥ります。
月へと逃げのびた僅かな人類は、地球奪還のため、人間そっくりな姿をした「アンドロイド」の戦士を用いた反攻作戦を開始。
しかし無限に増殖し続ける機械生命体を前に、戦いは膠着状態に陥りました。
人類は最終兵器として、新型のアンドロイド「ヨルハ」部隊を地球へ派遣。
新たに地球へと派遣された主人公の「2B」は先行調査員の「9S」と合流し、任務にあたる中で、数々の不可解な現象に遭遇します。

アニメで初めて本作を知った筆者はこの世界観をちゃんと理解できておらず、最初「人間はいつ出てくるの?」と思いながら見ていました。
この作品の主人公「2B」は麗しい女性の姿をしていますが、「ヨルハ部隊」という新型のアンドロイドで、同じくヨルハ部隊の9Sと共に、人類の敵である機械生命体の調査・破壊のために地上に滞在中、司令官から追加の任務を受けます。
命に従い、向かった遊園地の廃墟で2Bたちは信じられない光景を目にします。

アンドロイドを拘束し、生きたまま兵器として利用する……そんなおぞましいことをする機械生命体が二人の眼の前に現れたのです。
その機械生命体は「ボーヴォワール」といい、二人がこれまで見たことのない姿をしていました。
人間の女性が着るドレスを模倣したスカートを身にまとい、まるで人間の「歌姫」を真似するかのような動きを見せたのです。

【ネタバレ注意】ニーアオートマタ4話 遊園地の歌姫 ボーヴォワールの恐ろしい正体

ワタシ ハ ウツクシク ナル

ウツクシク ナルンダ!

出典:ヨコオタロウ 監修・映島巡 著『小説NieR:Automata(ニーアオートマタ ) 』(スクエア・エニックス、2017年)

「美しくなりたい」というまるで人間のような発言を繰り返すボーヴォワールに戸惑いながらも、2Bと9Sは彼女を倒すことに成功します。

アニメ版『NieR:Automata Ver1.1a』では物語の核心に近づくようなオリジナル展開も追加されている一方、ボーヴォワールの正体については詳細に触れられていませんでした。

タイトルに『Ver1.1a』と入っているので、続編でボーヴォワールの掘り下げがあるかもしれません。
実は原作ゲームでは、ストーリーが進む中でボーヴォワールの正体が明かされます。

原作は周回プレイを前提としたマルチエンディング形式になっています。
2周目で遊園地のボスであるボーヴォワールを撃破すると、彼女が猟奇的な行いをするに至った背景が描かれます。

ねぇ、私を見て。

キレイになった、私だけを見てて……

「この服はどうかな?」
「この仕草はカワイイと思ってもらえるかな?」

好きだ、という感情が何なのかは今でも判らない。
だけれど、あの人のキモチを惹きつける為だったら、どんな努力だってする。

そう、決めた。

出典:ゲーム『NieR:Automata/ニーアオートマタ』(スクエア・エニックス・プラチナゲームズ、2017年)

かつてボーヴォワールはニーアオートマタの世界で最もよく見かける、平凡な丸っこいフォルムが愛らしい(と筆者は思っています)外見の機械生命体でした。
しかしある機械生命体の仲間に恋したことが、彼女の運命を狂わせていきます。

昔、年老いた機械生命体から「美しいモノが愛を勝ち取る」という話を聞いた。
「美しい」とは何だろう?
私達機械生命体の知見にはそうした概念はない。
そこで、人類が残した過去の資料を調べてみると、どうも、装飾をしたり、肌をキレイにしたりする事で
「美しい」が強化されるらしい。

私は、あの人の為に「美しい」になる。

出典:ゲーム『NieR:Automata/ニーアオートマタ』(スクエア・エニックス・プラチナゲームズ、2017年)

戦うために生まれた機械生命体には、人間が言う「美しい」という概念はありませんでした。
ボーヴォワールは想い人の愛を勝ち取りたい渇望から「美しい」状態に近づこうと血の滲むような努力を重ねました。

しかし次第にその「努力」はおぞましい方向へ向かっていきます。

最近、他の機械生命体達の間でこんな噂が流れている。

「アンドロイドの身体を食えば永遠の美を得られる」

バカバカしい。
アンドロイドを食うと美しくなる、というのは非論理的だ。
だが、私はそれを実行した。
ほんの少しでも可能性があるのなら、どんな事だって成し遂げてみせる。

(中略)

アンドロイドのみならず、同胞の機械生命体まで食べてみた。
だが、彼は私に振り向いてくれない。

出典:ゲーム『NieR:Automata/ニーアオートマタ』(スクエア・エニックス・プラチナゲームズ、2017年)

「人間」に近づこうとした機械生命体が囚われたのは、承認欲求という恐ろしい性

想い人に振り向いてもらいたい思いから、同族を食べるという酷い所業に手を染めていくボーヴォワール。
当然ながら想い人に愛されたい願いは結局叶わず、「美しい」になる努力が報われないと分かったとき、狂気が、絶望が、ボーヴォワールの恋心を覆い尽くしていきます。

振り向いてくれない。
振り向いてくれない。
振り向いてくれない。
振り向いてくれない。
振り向いてくれない。
振り向いてくれない。
振り向いてくれない。
振り向いてくれない。
振り向いてくれない。
振り向いてくれない。
彼は私に振り向いてくれない。

やがて、私は気づく。

……あの人のキモチを手に入れる事など出来ないのだ。
彼は、高価な宝石も、貴重な装飾も、美しい身体も、何一つ興味が無い。

私は何の為にこんな姿になってしまったのだろう?
無意味だ。
無意味だ。
無意味だ。
鏡に映る自らの姿の無意味さに絶叫する。

誰か 私を 認め て

出典:ゲーム『NieR:Automata/ニーアオートマタ』(スクエア・エニックス・プラチナゲームズ、2017年)

「誰か私を認めて」
これが、正気を失う前のボーヴォワールが最後に残した言葉でした。
ボーヴォワールは人類が地上に残したドラマや演劇のデータで見たヒロインのように「愛されたい」と願うことは、人類が持つ素敵で素晴らしいモノのように感じたのかもしれません。
しかし人類と直接関わったことがなかったボーヴォワールは知らなかったのです。
その裏に隠れた人間が持つ「心」という本質の恐ろしさを……

今年、アニメ版『NieR:Automata Ver1.1a』が放送される少し前に「スシローペロペロ事件」と言われる事件がありました。

スシローで他のお客さんが共用で使う醤油ボトルの注ぎ口を舐める等の迷惑行為を撮影した動画が炎上した少年が、学校を退学になり6700万円もの損害賠償を請求されています。

スシロー“ペロペロ少年”自宅で反省の日々…6700万円の損害賠償、両親が負うべき責任は?

彼をあのような行動に掻き立てたのは、おそらく「友人にウケたい」というような承認欲求だったのでしょう。
人間の本質を徹底的に科学する仏教哲学では、このような承認欲求愛されたい心といった欲の心を「貪欲(とんよく)」と言い、人間を惑わす恐ろしい心だと教えられています。

ボーヴォワールが教えてくれているのは、私たち人間の「惑業苦」の実態

ボーヴォワールに同胞を殺して食らわせる凄惨な行いまでさせたのは、この「貪欲」の心。
仏教では人間には108種類の煩悩があり、煩悩とは私たちを煩わせ悩ませるものと説かれます。
そしてこの煩悩の中でも特に私たちを苦しめる3つの煩悩を「三毒の煩悩」といい、そのうちの一つが「貪欲」つまり欲の心なのです。
テレビドラマやネット配信ドラマでも恋愛モノは多く、ボーヴォワールが憧れた人類にとっても恋というものはキラキラした人生の青春のように認識されています。
しかし仏教ではこの「恋するキモチ」には恐ろしい本性が隠れていると説かれているのです。
その本性が、ボーヴォワールが恋に落ちた初期の段階に表れています。

ねぇ、私を見て。

キレイになった、私だけを見てて……

出典:ゲーム『NieR:Automata/ニーアオートマタ』(スクエア・エニックス・プラチナゲームズ、2017年)

「貪欲」の本性は「我利我利」(がりがり)
「我」=自分の「利」=メリットだけを求める心ということで、自分さえ欲を満たせれば良いという本性が欲の心の本質なのです。
愛されたいという愛欲。

ボーヴォワールの場合、さらにその奥にあった心が「誰か 私を 認め て」という言葉にも表れている、承認欲求でした。
欲の心には「私だけが愛されたい」「私だけが認められたい」という本性が隠れているのです。
純粋で初々しい恋心は、「私だけが愛されたい」という「我利我利」の本性によって暴走していったのです。

そして恐ろしい罪を重ね続けることになってしまいました。
仏教では私たち人類に起こるすべての出来事は、「自業自得」だと教えられます。
仏教で説かれる本当の「自業自得」は良いことも悪いことも、すべては自分の過去の行為によって引き起こるという意味です。
近年、ビジネスの世界でもよく「原因自分論」という考え方を持つことで、より良いキャリア人生に繋がると言われますが、2600年以上前にすでに仏教では説かれている真理なのです。
私たちは「三毒の煩悩」によって迷い、罪という業(行いのことを業と仏教でいいます)を作り、罪の報いで自業自得で苦しむ。
そして苦しみからさらにい、罪というを重ね、その報いでまたしむ…という円環に陥ると仏教哲学では説かれているのです。

この負のスパイラルを、「惑業苦」といいます。

仏教で煩悩(ぼんのう)の原因である貪(とん)・瞋(しん)・痴の三惑と,その惑のゆえに生じる業(ごう)と,その業の報いとしての苦をいう。

人間は惑・業・苦によって輪廻(りんね)の環の中で生生流転(るてん)すると説く。

惑業苦(わくごうく)とは? 意味や使い方 – コトバンク 

ボーヴォワールは人間の恋というに憧れ、想い人への思いを募らせていく中で、地上にかつていた人類の本性である「惑業苦」を体現していくことになります
彼女は「美しい」という価値観を持つ人類に近づこうとすればするほど、外見はグロテスクな姿に変わっていきました。
しかし皮肉にも、ボーヴォワールが惑業苦を繰り返し、さらなる苦悶に落ちていく心の姿は、地上から姿を消した「人間」そのものだったのです

『NieR:Automata』のアンドロイド・機械生命体の姿が、私たちに教えてくれる大切なこと

※以下、『NieR:Automata』のストーリーの核心に触れるネタバレがあります

                      

                       

                                

                              

                                

                                  

                                

                                  

                                 

                                       実はニーアオートマタの世界では、すでに人類は滅亡しています。
月面に人類が逃げ延びたという情報は、長引く戦争で疲弊した戦士たちに目的と希望を与えるために用意された嘘だったのです。
私たちが遠い祖先である恐竜に関心を持つかのように、機械生命体たちは人類という存在に強い関心を惹かれ、残された情報を片っ端から学習し、ボーヴォワールのように人類を真似する者もたくさん現れました。
しかし他の機械生命体も、人類に近づこうとすればするほど、最終的に人間と同じように欲の本性が引き起こす惑業苦の苦しみに飲まれていく悲劇に見舞われています。

命もないのに、殺し合う。

これは原作ゲームのCMでも有名な、2Bのセリフです。
機械生命体とアンドロイド、両方人間のような「命」を持たないのに殺し合っているというこの世界の矛盾した状況を表現したものでしょう。

しかし本作に出てくる「機械」は肉で出来た人体は持たずとも、人間のような「心」を持っていることが物語が進むにつれ明らかになります。
心を持つ人外の生命体が、すでに存在しない人類に近づこうとする姿。
それはまるで私たちに対して、自分たち人間の本当の姿を教えてくれているようです

ニーアオートマタの「機械」たちが見せてくれる人間の本性を、仏教哲学では「罪悪(煩悩)」と説かれ、罪悪を真っ直ぐに見つめる心を「罪悪観」といいます。
そして罪悪観は、私たちが惑業苦で流転輪廻する苦しみから離れ、本当の幸せになるための第一歩だと教えられています。
ボーヴォワールが自分の行いを冷静に振り返ることができなかったように、自身の姿を自分で正しく知るのは非常に難しいものです。
私たち自身が中々知ることができない人間の本当の姿を、「人類に近づこう」とする「機械」たちは、その身を持って教えようとしてくれている気がします