アドラー心理学で「劣等感」はどう教えられているのか、を紹介しています。
前回の記事はこちら↓
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劣等感は特定の人が持っているものではなく、誰もが抱いているものなのです。
なぜ、誰もが劣等感を持ってるなんて言えるのか。
それは人間には「優越性の追及」があるからです。
「優越性の追求」とは、常に理想とする自分を思い描き、理想の自己を求めていることです。
その理想の自分と、現状とを比べると、必ず差が生まれます。理想の自己との比較で劣等感が生まれるのです。
その「優越性の追求」には誰にでもあるので、劣等感は誰もが持っているといえるのですね。
だから、劣等感を持つこと自体は健全であり、異常なことではありません。
「嫌われる勇気」には以下のように書かれています。
哲人 健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。
岸見一郎・古賀史健(2014). 「人生は他者との競争ではない」 『アルフレッド・アドラー 嫌われる勇気』 92pp. ダイヤモンド社
劣等感は異常でないどころか、目標達成に向かう力にすらできるのです。劣等感を力に変えて偉業を成し遂げた人は数知れません。
ところが…。
その劣等感も、目標達成に向かわないことの言い訳に使ってしまうことがあり、それを「劣等コンプレックス」といいます。
劣等感と異なり、この劣等コンプレックスを持つことは不健全である、とアドラーは語っています。
劣等コンプレックスがどうして不健全であるといわれるでしょうか。
今回は、その劣等コンプレックスから抜け出す方法を紹介していきます。
劣等コンプレックスの人は「見かけの因果律」の中で生きている
劣等感を言い訳にして目標に向かわないのが劣等コンプレックスです。(アドラー心理学で目標に向かわないとは、特に対人関係の課題から逃げていることをいいます)
具体的には、
- 背が低いからモテない
- 学歴が低いから成功できない
- 親の遺伝のせいで勉強できない
などと言っている人は劣等コンプレックスを持っている人です。
これについて
日常生活のなかで「Aであるから、Bできない」という論理を振りかざすのは、もはや劣等感の範疇に収まりません。劣等コンプレックスです。
と書かれています。
「学歴が低いから成功できない」いうのは、一見すると因果関係が成り立っていると思えますよね。
しかし…。
この考えには重大な欠陥があると指摘されてます。
(「Aであるから、Bできない」というような)因果関係について、アドラーは「見かけの因果律」という言葉で説明しています。
本来はなんの因果関係のないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう、と。
岸見一郎・古賀史健(2014). 「言い訳としての劣等コンプレックス」 『アルフレッド・アドラー 嫌われる勇気』 82pp. ダイヤモンド社
たとえ学歴が低くても(大学まで卒業していない方でも)成功している方はいます。
それなのに「学歴が低いから成功できない」と言っているのは、因果関係のないところに無理やり因果関係を作り出し、目標に向かわない自己を正当化しているのです。
自分が作り出した都合のいい因果関係が「見かけの因果律」なのですね。
「見かけの因果律」のなかで生きている限りは、目標達成から逃げ、努力することはなくなってしまいます。
そんな逃げの人生でいいはずがありませんね。
どうすれば「見かけの因果律」から抜け出し、劣等コンプレックスを降伏できるのでしょうか?
自分を正当化する「見かけの因果律」から抜け出す手段は?
劣等コンプレックスを克服するには、「自己受容」が不可欠です。
「自己受容」と聞くと、
「『自己肯定』とはどう違うの?」と思われるでしょう。
「自己受容」と「自己肯定」、言葉は似ていますが、実は、意味はまったく異なるのです。
その違いを「嫌われる勇気」では以下のように説明されています。
哲人 ことさらポジティブになって自分を肯定する必要はありません。自己肯定ではなく、自己受容です。
青年 自己肯定ではない、自己受容?
哲人 ええ、この両者には明確な違いがあります。
自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけることです。
(中略)
一方の自己受容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくことです。自らに嘘をつくものではありません。
もっとわかりやすくいえば、60点の自分に「今回たまたま運が悪かっただけで、ほんとうの自分は100点なんだ」と言い聞かせるのが自己肯定です。
それに対し、60点の自分をそのまま60点と受け入れた上で「100点に近づくにはどうしたらいいか」を考えるのが自己受容になります。
岸見一郎・古賀史健(2014). 「自己肯定ではなく、自己受容」 『アルフレッド・アドラー 嫌われる勇気』 pp.227-228 ダイヤモンド社
自らに暗示をかけるのではなく、ありのままのわたしを受け入れる。それが自己受容ですね。たとえ現状が「できない自分」であったとしても悲観する必要はないのです。
自己受容が正しくできると、「変えられるもの」と「変えられないもの」とが見極められます。
自分に与えられたもの(身長、環境、遺伝など)は変えることはできません。
しかし、アドラー心理学で重要視されるのは「与えられたもの」ではなく、「与えられたものをどう使うか」です。与えれたものの使い方は自分の力で変えていくことができるのです。
前回の記事では二宮金次郎尊徳の話をしました。
尊徳は大変貧しい家庭に生を受け、幼くして両親と死別し、引き取られたおじのところでは朝から晩まで労働を強いられました。
それでも尊徳は一つも言い訳をすることなく、与えられた環境を最大限活用し、数々の農村復興に至ったのです。
与えられた環境を最大限生かした姿(薪を担いで歩きながら本を読む姿)が今の銅像となって残っています。
この「変えられるもの」と「変えられないもの」とを見極めることを「肯定的なあきらめ」ともいわれます。
自己受容し、肯定的なあきらめをすることで、「変えられないことで悩むのをやめて、変えられることを努力して変えていこう!」と勇気が湧き、劣等感が活力に変わるのですね。
仏教でも説かれる「自己受容」
劣等コンプレックスを克服するのに必要な「自己受容」は、アドラー心理学だけでなく、仏教でも教えられています。
もちろん、自己受容という言葉は仏教には出てきません。
それに相当する仏教用語に「正見(しょうけん)」があります。
正見とは字の通り「正しく見る」ことです。
わたしを正しく、ありのままに見ることが正見なのです。
「わたしはわたし。わたしのことを正しく見ることなんて簡単だよ」と思われるかもしれません。
しかし、わたしをありのままに見ることほど難しいことはないのです。
それは、わたしのことを自分で見ようとすると、どうしてもバイアス(偏り)がかかってしまうからです。
アドラー心理学でも「認知バイアス」という言葉があります。物事を認知する際にその人特有のバイアスがかかってしまう、ということです。
「嫌われる勇気」の哲人があげていたテストの例でいうと、同じ60点を取った人が複数いた場合、点数は同じでも認知の仕方に差が出ます。
ある人は「なんてひどい点数を取ってしまったのか」とひどく落ち込み、
ある人は「今回もまあまあだったな」と平常心。
あるいは「これまでの最高点だ!やったー」と大喜びする人もいるかもしれません。
これまでの経験に基づいて認知の仕方が大きく異なるのですね。
同じ点数でも「もっと上を目指すべく勉強しよう」と思う人もあれば、「もう自分には勉強は無理だ」を投げ出す人もいる。
ここで「もともと自分は勉強には向かないから」と言い訳に走る人も出てくるでしょう。
認知の仕方を誤れば、人生の課題を放棄してしまいかねません。
正しく見ることがいかに大切かがわかりますね。
バイアスのかかっていないわたしの姿
このように、アドラー心理学でもバイアスが教えられているのですが、仏教でもバイアスに当たるであろう言葉があります。
それは「慢(まん)」と「悪見(あっけん)」です。
慢は自惚れ心ともいわれ、自分の姿をとても悪いようには見られない心のことです。いわゆるナルシストですね。
反対に悪見は物事を悪いように見ようとする心。これはネガティブ思考といえますね。
わたしがわたしの姿を見ようとすればナルシストになるか、ネガティブ思考になる。これではわたしを正しく、ありのままに見ることはできないのです。
そんな、自己の姿を正しく見るのが困難な私たちに、お釈迦さまが仏の智恵によってわたしのありのままの姿を説かれたのです。
だから、お釈迦さまが説かれた仏教を学ぶことで、バイアスのかかっていないわたしの姿がわかってきます。本当のわたしの姿を知ることで深い自己受容ができ、底の知れない勇気が湧いてくるのです。
劣等コンプレックスの克服には自己受容が必要である、とお話してきましたが、
仏教で説かれるわたしの姿を知ることで、より深く自己が受容できますので、ぜひアドラー心理学とともに仏教を学ばれる機会としてもらえればと思います。