韓国ドラマ『番人』からみる、いつ豹変するかわからない恐ろしい「私の心」※ネタバレ注意

こんにちは、YURAです。

みなさんにとって“大切な人”といえば、どなたを思い浮かべますか?

育ててくれた親御さん?いつも支えてくれる彼氏彼女?

辛いときに側にいてくれる親友?

ご結婚されている方であれば、夫や妻、お子さんという方もいらっしゃるでしょう。

今回は、2017年上半期に韓国で放送されたドラマ“番人(파수꾼)”から、仏教で説かれる「縁」について書いてみたいと思います。

韓国ドラマ『番人』あらすじ

世の中には、法律では裁くことができず、“真実”を明らかにできないことがあります。

大切な人を奪われ、悲しみの中生きている犯罪被害者が後を絶たないのも事実です。

そんな犯罪被害者たちが自ら復讐を成し遂げるために結成されたのが、タイトルにもなっている“番人”という組織です。

主人公のスジは、母親の助けを借りながらも、母親業と刑事を両立させるシングルマザーです。一人娘のユナは幼いながらも、刑事である母を尊敬し、とても賢い子に育っていました。当然スジは、ユナをとても大切に可愛がっていました。

そんなある日、スジは、愛娘ユナがビルから転落したという知らせを受け、その時一通の不審なメールを受け取ります。それは、ユナが転落したのは事故ではなく、何者かにビルから突き落とされる防犯映像でした。

すぐにスジは捜査を開始し、ユン・シワンという高校生を犯人と確信します。しかしシワンは、ソウル中央検察のトップに就くユン・スンノの息子でした。確実な証拠がない中で、権力が働き、うやむやになり、結局逮捕することはできませんでした。

シワンは、他の者を欺きつつ、スジにだけわかるように、ユナ殺害を自白してきました。

まるでゲームをするかのように娘の命を奪ったシワン。愛娘を殺された憎悪と、犯人がわかっているのに逮捕できない悔しさにスジは、我も忘れ、シワンに発砲し、逃亡犯となります。

衝撃的なボスの魂胆とは

しかしこれはすべて、スジを“番人”のメンバーにするために仕組まれたものでした。

“番人”のボスが、メンバーのソ・ボミに不審なメールを送らせ、コン・ギョンスは逃亡を助け、スジを“番人”のメンバーに引き込んだのです。

後々明らかになるのですが、実はこの“番人”のメンバーはすべて、ユン・スンノの暴君ぶりによって犯罪被害者となってしまった人たちの集まりでした。

そして、ボスの父親もまた、ユン・スンノによって、スパイ容疑で拷問され、息子のことさえわからなくなるほど、精神を破壊された被害者でした。その父親の恨みを何とか晴らしたいのと、自らの復讐の為に、ボスは“番人”という組織を造り、メンバーを利用していきます。

しかし、メンバーはこのボスの魂胆に徐々に気がつきます。

そしてついにスジは、シワンがユナを殺害するとわかっておきながら、ボスが自分の復讐のために、ユナを見殺しにしていたことを知ります。

今まで仲間だと思っていた人が、ユナ殺害を傍観していた人物だったとは、夢にも思いませんでした。この裏切りは耐え難いものです。

スジは直接ボスに会いに行きます。

スジ「事実なの?ユナがシワンに連れていかれるのを見ていたのは事実なの?」

ボス「うん…本当だ。」

スジ「なんでなの!?答えて!なんでなの!??」

(中略)

スジ「今まで黙ってたくせに。それで打ち明ければ許されるとでも!?自分が楽になりたいだけでしょ!許せない…ユナが生き返ったとしても、あなたを許せない!!」

しかしその後スジは“番人”の事務所に帰り、一人悩みます。

ボミ「ボスに会った?事実だって?」

スジ「そうみたい…。」

ボミ「でもユナを助けに行ったのでは。最初から知ってたわけじゃないんでしょ!?」

スジ「私はユナがこうなって、シワンを殺そうと学校に乗り込んだ。チーム長がいなかったら、あいつを撃ち殺してたはず。あの時私は、シワンを捕まえるためなら何でもできた。チャン(ボス)も同じよ。父親の無実を晴らすためなら、何でもできたはず。ユナを見殺しにしたと思うと、今すぐ殺してやりたいけど、その気持ちが私は分かるから、だから気が狂いそう…。」

主人公のスジは、人の痛みに寄り添う優しい一面を持ったキャラクターです。だからこそ、ボスの心の痛みが理解でき、また、自分も同じことをしたのだと気づきます

縁さえくれば何をするかわからない恐ろしい心

仏教では「縁」次第で、人はどうにでもなってしまうと教えられています。

仏教では、結果には必ず原因があると教えられます。詳しくいうと、因(原因)と縁とがそろってはじめて、結果が起きるのだと教えられています。

例えば、ダイエットに成功するという結果には、ダイエットをしようと思う私という因は不可欠ですが、何もしなければダイエットすることはできません。バランスの良い食事を摂れるようにするとか、運動できる環境に身を置くとか、何か変えなければなりません。

これら因を助けて、結果を引き起こすものを、縁といわれます

いくら、因はあっても、縁がなければ、結果にはなりません。因と縁とが和合してこそ、結果が表れます。

これを知ったうえで一つ、仏教の高僧の言葉をご紹介しましょう。

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし(歎異抄)

私(私たち)は縁がくれば、どんな恐ろしいことでもやるであろう。どんな恐ろしいことでも、やってしまうような因を持っている、ということです。

スジは決して犯罪に手を染める人間ではありませんでした。

むしろ、犯罪者を捕まえる刑事であり、家では大好きな娘を育てるごくごく普通のお母さんでした

しかし、大切な娘が殺されるという縁が激変すれば、理性を失い歯止めがかからず、殺したいほど憎い犯人に制裁を加えたい、それ一つになってしまいました

それほど大切な人がいる、ということはとても幸せなことですが、大切であればあるほど、その人を失ったとき、どれほどの苦しみ・不安が襲ってくるでしょうか。

そう思うと、もし、同じ立場にいたらどうでしょう。犯したスジの罪は重いですが、果たして、スジを責めることができるでしょうか。

自己に厳しく問いたださずにおれません。

私たちは、ついついその時だけをみて、「あの人はこうだ。」と決めつけてしまうものですが、ふたを開けてみると、思いもつかない色んな事情があるということも多々あります

相手の痛みに寄り添うことこそが、本当の自分を見つめる一歩となるやもしれません。

※セリフ翻訳:YURA
記事の構成上、一部意訳しているところや、省略しているところがあります。ご了承ください。