思いやりで文字が出来た?利他の心で生まれたハングルの成り立ち

こんにちは、YURAです。前回は、布施について書かせていただきました。今回は韓国語の歴史を通して、前回の「親切をすると、幸せのお返しが必ず来る」ことについて、もう少し深く学んでみたいと思います。

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布施は韓国語で“ポシ”、ハングルで書くと“보시”です。実は、このハングルも布施の精神で作られたこと、知っていますか?

ハングルの面白い成り立ち

ハングルとは、韓国語・朝鮮語を表記するための文字、「表音文字」です。

「表音文字」とは文字通り、音を表す文字のことです。代表的な例としては日本語の「ひらがな」や「カタカナ」がそれに当たります。「あいうえお」や、「アイウエオ」などは、音を表す文字であって、その記号に意味はありません。

ちなみに、漢字は一字一字が意味を持っているので、「表意文字」といわれます。

ハングルは、ローマ字と同じような仕組みで子音と母音に分かれ、その組み合わせで一つのハングルになるのですが、おもしろいことに、子音は発音するときの舌の位置や口の形、母音は口の開け方を示しているのです。実はこれは、ハングルが民衆のために作られた文字だということを表しています。

ハングルは思いやりから生まれた文字

ハングルは15世紀半ば、李氏朝鮮第4代国王世宗(セジョン)が公布した文字です。

それ以前は、言語は現地の言葉で話されていましたが、文字は民族固有のものを持たず、基本的に中国から伝わった漢字を使用していました。

しかし、漢字の読み書きができるのは知識層のみで、一般の民衆には到底使用することができませんでした。そこで、民衆にも学びやすいようにと、「ハングル」が創製されたのです。

ハングル創製の目的は、身分にかかわらず、民衆にも知識を与えてやりたいという世宗の布施心でした。世宗は、民衆が文字を知らないが故に知識を蓄えることができない状況をなんとかしてやりたいと考えたのです。また、民衆に文字を与えることによって、長い目で見て、国の発展を願ったのかもしれません。

しかし、作っても、実際に民衆に使用してもらわなければ意味がありません。毎日生きることに必死な民衆が、勉学に時間を費やすことは考え難く、どうしたら民衆にも手軽に学んでもらえるか、どうしたら広く根深く伝わるのかを考えなければなりませんでした。

そこで、文字の通りに口を開けて音を出すと発音できるように、舌の位置や口の開け方を記号化することにしたのです。

一方、反対勢力も現れます。

学者の中には漢字が最高の文字だという意見があったり、もうすでに根付いている漢字を、今更変えると混乱するのではないかという意見もあったようです。また、ハングルを創製するということは、世の中がガラリと変貌することも予想されます。

当時、字の読み書きは上流階級のステータスでした。国民全員、字の読み書きができてしまうと、自分の職が奪われる可能性が出て、困るのです。このような反対勢力に対し、武力なくして説得したというのですから、これまた驚きです。

今では「ハングル」と呼ばれていますが、もともとは「訓民正音」という呼び名でした。これは、「民を教える正しい音」という意味です。ここにも民を思う世宗の布施心が込められているように感じますね。世宗は、ハングルを作っただけでなく、政治を行う上でも常に民衆の生活安定を考え、民衆を思いやる王だったと伝えられています。

このように、自分がどれだけ苦労しようとも、他人のために努力する、これを仏教では「布施」といいます。

お釈迦さまの教える「他人への親切が自分への親切になる」とは

お釈迦さまは、幸せになる6つの行いの一番始めに、この「布施」を説かれています。

世宗は自身を顧みず、民衆に「布施」をすることによって、韓国では、今では最も尊敬される歴史的人物の一人に挙げられています。

もちろん、始めから偉くなろうとしたり、見返りを求めて「布施」をすることではありません。純粋に相手の幸せを想って親切をすると、自ずと自分も大切にされるようになると、教えられているのです。このように、他人を幸せにする(利他)ままが、自分の幸せ(自利)になるということを、仏教では「自利利他」と教えられています。

世宗の自利利他の精神があればこそ、今の世の人たちも尊敬を表し、観光の名所に銅像を作ったり、国の象徴であるお札に描くことにしたのでしょう。

私たちは、他人のための努力をどうしても避けがちです。そこに費やす労力が多ければ多いほど、また関係が遠い相手にほど、なおざりにしがちです。ちょうど先ほど述べた反対勢力がこれに相当しますね。特に自分に余裕がないときは、他人のことを考えられなくなってしまいます

例えば、前日徹夜して休日出勤した帰りの電車、疲れきっている時に、果たしてお年寄りに席を譲ってあげようという心は起きるでしょうか。また、長年付き合った彼氏・彼女とお別れした日、友達から結婚の報告が来たら、果たして心からお祝いを言えるでしょうか。

私たちはふと気づくと自分の利益ばかり考えています。これを仏教では「我利我利」と教えられます。他人への親切は自分への親切。世宗のように国民全員にとまでは難しいかもしれませんが、袖触れ合うも多生の縁です。私たちもまずは今、目の前にいる人に親切という布施をして、相手も自分も幸せに過ごせる毎日を送りたいものですね。