はじめまして。「ホウク」と申します。現在東京都内で、システムエンジニアをしています。私がなぜ仏教に興味を持ったか、ご紹介できればと思います。
何の気なしに仏教を学んでみた
私は、大学附属高校から流れるように大学に入学しました。高校からの趣味であったバンドサークルに通ったりしつつ、特筆すべきことのない日常を送っていました。可もなく不可もなく、それなりに楽しい生活でした。
しかし、わずかばかりの向学心から「大学生になったことだし、新しいことでも学んでみようか」という思いが生まれました。
そこで仏教を学ぶことにしました。まったくこれまで縁もなかった分野にに飛び込んでいくとは・・・今よりも勇気があるとように、今は思えます。
そこで初めて耳にした仏教は、興味深いものでした。しかし、仏教は2500年くらい前に説かれた教えです。
何も知らなかった私にとっては、仏教は「新しい」ことでしたが、「最先端技術」のようなものとは、かけ離れた教えのように思っていました。
なので、その頃の私は「ある程度学べたら、もういいだろう」と思いながら勉強会に顔を出していました。
仏教と宇宙
ところが、そんな仏教へのイメージは大きく変わりました。はるか前に説かれた教えにも関わらず、科学的な矛盾がないのです。
特に仏教における宇宙についての教えには、驚きました。
現代科学で明らかになった「銀河」や「銀河団」という単位が、すでに釈迦の時代に説かれていたのです。
中学時代から少し宇宙に興味があり、高校でも地学を選択していた私にとって、それはとても興味深い内容でした。
そもそもそんな大昔に、地球のほかに無数の天体が存在していたことを一体誰が想像できただろうか・・・と不思議な気持ちになりました。当時のインドやキリスト教で教えられていた宇宙観とはまるで次元が異なります。亀の上に大きな象がいて、その上に人間が生活しているのだと教えられていた時代です。銀河系について研究が進んだのはここ最近です。それを考えると驚きでした。
「これが仏教の宇宙観か」と衝撃を受けたのでした。
祖母の死
もう一つ、仏教を学ぼうと思ったきっかけがあります。
高校2年生のときに、父方の祖母が亡くなりました。物心ついて以来、親しい人が亡くなるのは初めてだったもので、やはり死については色々と思考を巡らせました。
帰省した際、生前元気だった祖母は、子どもだった私をよくデパートへ連れて行ってくれました。子どもにとって非常に嬉しい、「なんでも買ってくれるおばあちゃん」でした。
いくつか持病はあったらしく、亡くなる1年前くらいから入院していたようです。亡くなる直前期、私は学校の土日休みを使って祖母の見舞いに行きました。
高校生になってからは帰省していなかったと思い、久しぶりで楽しみな気持ちがしていました。
先に着いていた父に車で送ってもらい、病院へ。
病室に入ると祖母の姿がありました。しかし、それは私の知らない姿でした。
生前は紫のメッシュが入りパーマのかかっていた髪が、ほとんど抜け落ち、背中が曲がった状態でベッドに座っていた祖母の姿がありました。
話しかけても、返ってくる言葉は支離滅裂でした。「とんかつ・・・」など、単語は聞き取れても、内容はまるでありませんでした。
結局、その姿が私の見た祖母の最後の姿でした。数日後に祖母は亡くなったのです。
「人間は死んだらどうなってしまうのだろう」「生前ですら、元気な状態から病気で弱った状態へと変り果てるのだから、死後なんて存在しない」などと考えました。
このような体験をした上で、仏教の生命観について知ったときは非常に驚きました。
死んだらそこでプツりと終わってしまうわけでもなく、かといって「あの祖母」が残り続けるわけでもないのと言うのです。
人生の価値とは
今年社会人になった私はつくづく思います。40年間働いて、稼いだお金で悠悠自適な老後を過ごす・・・。
考えれば楽しそうで素晴らしいことですが、そのさらに先を考えると待ち構えているのは死です。
それなら初めから頑張らなくてもいいのでは?と効率主義者の私は思ってしまいます。
こんなにも広大な宇宙で、あんなにも変わり果てて最終的に小さく死ぬ人生には一体何の価値があるのか。
私は幸いにも、早急に人生に困っているわけではなく、むしろ環境に恵まれすぎているくらいなのですが、ぼんやりと先を見据えてみると見えてくる確かな終わりが気になります。
そんな中「大昔の教えが宇宙を説いている」「死の問題の解決が教えられている」ことに凄さを感じ、それをきっかけに私は今もまた仏教を聞き続けています。
ぜひご興味ある方は、一緒に学んでいっていければと思います。