「ロブスターを苦しませず料理せよ」スイスで施行される新しい法律
皆さんは生きたままの魚介類、茹でたことはありますか?
スイスではこんな法律が施行されるそうです。
【ジュネーブAFP=時事】スイス政府は、ロブスターを生きたまま煮えたぎる鍋の湯に放り込む調理法を料理人に禁止する方針を決めた。
動物保護法見直しの一環で、3月1日から施行される。
動物愛護活動家や一部の科学者は、ロブスターなど甲殻類は複雑な神経系統を持ち、生きたままゆでられればかなりの痛みを感じるはずだと主張。
政府は「生きたロブスターを鍋に放り込むのはレストランでは一般的だが一切禁止する」と命じた。
政府は「ロブスターが死ぬ前に意識を失わせておく必要がある」とも通告。
スイス放送協会フランス語放送(RTS)は、通告を守る方法は電気ショックくらいしかないと伝えた。
また、氷水に入れて甲殻類を生きたまま運ぶことも禁じられ、「常に自然な環境の状態にしておく」ことが要求される。
日本食には「踊り食い」という文化もありますし、日本に生まれ育つと、生きたままの魚介類を食べる文化にそこまで抵抗が無いかもしれません。
筆者は実際生きたままの魚などを食べたことはないものの、法律で禁止されたというニュースには驚きました。
私はロブスター当事者(?)ではないので、ロブスターがどれほど痛みを敏感に感じる生き物なのかは分かりませんが、専門家の方がおっしゃられているように複雑な神経系統を持つのなら、たしかに生きたまま茹でられるのは大変な苦痛ですよね。
ただ筆者はこのニュースを見ていて、一つ素朴な疑問が出てきました。
ロブスターに限らず、生き物なら誰しも生きたまま茹でられるのは非常に苦しいことなのではないでしょうか。
ニュース中にある「ロブスターなど甲殻類は複雑な神経系統を持ち、生きたままゆでられればかなりの痛みを感じるはずだと主張」という表現を見たとき、もし自分がロブスターだったら…と考えてゾッとしたのです。
人間でいえば、生きたまま溶鉱炉の中に放り込まれるようなものですよね。
食べられる生き物の立場を自分に置き換えると、「どんなに苦しいことだろう」という思いになってきます。
「もし自分だったら」と考えるとロブスターでなくても残酷な行為?動物実験を通じて知らされた自分の姿
「もし自分だったら」と考えると、ロブスターに限らず他の動物も屠殺されることは残酷にも思えてきます。
そうなると、美味しいお肉料理や海鮮料理も残酷な行為の集大成になってしまうのでしょうか。
これは食事のためにかぎらないことで、人間が生きるために動物を殺すことについては、筆者も経験があり考えさせられたことがあります。
筆者は大学時代、ラットを使って動物実験をしていました。
筆者の卒論研究は記憶障害についての研究で、ラットの脳に薬物を投与して行動を調べる実験です。
実験の結果を確認するため、卒論研究の最後には脳標本を作る必要があります。
標本を作るには灌流固定という作業が必要で、ラットに薬を注射して眠らせ、胸部を切開して心臓が動いているうちに注射針を直接心臓に刺して細胞を固定する液体を注入。
そして脳を摘出し、標本を作成して分析するという作業を日常的にやっていました。
この作業を行ったあとの実験室は血液の匂いで充満し、最初は吐き気がしたものです。
しかし慣れとは怖いもので、そのうち血の匂いにも、血まみれになる白衣やゴム手袋を見るのにも慣れ、作業をしたあとでもご飯をモリモリ食べられるようになりました。
素早く注射針を心臓の正確な部位に刺す必要があるのですが、これが中々難しくて完璧に成功したときはゼミの仲間と「やった〜!」なんて喜び合っていたものです。
ところがある時、同じ研究室でこの作業をしない研究をやっている友達が実験室に来てしまったことがあり 「ぎゃ〜〜〜〜〜〜!!!!殺人鬼ジェイソンがいる〜〜〜!!」 と私を見て言ったのを覚えています。
(正確には、殺チュー鬼でしょうか)
家でハムスターを飼っていた友人には、うっかり研究の話をしてしまい外道を見る目でみられたことも…(笑)
自分もまた、実験のため毎日のように顔を合わせたラットたちには結構愛着が沸いてしまい、大学卒業のためにこういう死に方をさせることに辛い思いはありました。
私の実験は卒論レベルで、医学研究の世界から見れば末端の末端の実験。
とはいえ、こうやってあちこちの研究機関や大学で繰り返される一見「残酷な」実験も人間が苦しむ病気の治療法確立のために欠かせないことなのです。
人間の脳に薬を注射したり脳を取り出してしまったりすることは犯罪ですから、人間の代わりにラットを使っている訳ですね。
私たちに必要とはいえ、見る人が見れば「殺人鬼みたい」と思うようなことをしなければ科学や医術の発展はないのだなあと、ラットの脳を取り出しながら思ったのを覚えています。
仏教で説かれる「殺生」とは。私たち人間の本性を考える
先日「ロブスター生きたままゆでるの禁止」というニュースを見たとき、 生きたまま茹でるなんてたしかに残酷だなあと思いました。
しかし一方、自分が大学時代やっていた実験のことも頭によぎり、自分も生きたままロブスターを調理する方のことを残酷とは言えない身だと思います。
仏教では生きものを殺すことは「殺生」という罪だと教えられます。
「ロブスター生きたままゆでるの禁止」というニュースが流れたとき、ネット上では「じゃあ踊り食いとかもっとダメなんじゃ」というような感想も溢れていましたが、仏教ではさらに広い視点から生きものを殺す罪について説かれます。
仏教思想では、ロブスターだから生きたまま殺してはいけないとか、ラットは人間の病気を治すために必要だから脳を摘出してもよいとか、動物の種類や殺し方によって差別はありません。
またロブスターを調理する人や、ブタや牛を殺して出荷している農家の方だけが殺生をしているのではないと教えられます。
自分で生きものを殺すことも、誰かにお願いして生きものを殺させることも、生きものが殺されることを心で喜ぶことも、どの行為も同じ「殺生」なのです。
「この動物を殺すのは残虐だ」「これは人間のために必要な犠牲」など、私たちが考えるような一切の例外を認めない、厳しい見方ですね。
そういう意味で殺生の罪を犯していない人間は一人もいないといえます。
もちろん筆者もラットだけでなく、手に止まった蚊も叩き潰して生きていますし、Gが家で出たときは母に潰してもらってましたし(一人暮らしをしてからは自分で殺生しなければならなくなりました)美味しい肉料理という殺生の成果物には舌鼓を打って喜んでいます。
生き物を殺さなくては生きていけないのが、人間という存在といえるでしょう。
仏教では私たちの心まで徹底的にみて殺生の罪について教えられているのですね。
これは「人間みんな殺生しまくりなんだから仕方ないよね」という意味ではなく、自分の罪を見つめる心の大切さを説かれています。
これは罪悪観と言われ、仏教を学ぶ上で根本になる大切な心です。
「ロブスター」のニュースを見ていて、自分の心を見つめるきっかけをもらったように思いました。