【考察】『宝石の国』の秘められた裏テーマ?ウェントリコスス王が教えてくれる「死」の本質 ※ネタバレ注意

宝石の国』は市川春子先生による漫画作品。

昨年アニメ化し独創的な世界観と魅力的なキャラクターが多くのファンの心を掴みました。

『宝石の国』作者の市川春子先生は高校時代、仏教校におられたそうで作品の中にも仏教で説かれる深い哲学が隠れています。

物語をより深いものにしている『宝石の国』の深い人間哲学をこのコラムではご紹介してきました。

今回は物語全体を通して語られている裏テーマについて考察していきます。

※『宝石の国』最新巻までの内容があります。ネタバレご注意ください。

【宝石の国・あらすじ】フォスとウェントリコスス王の会話に隠れているのは『宝石の国』真のテーマ?

人類が滅亡した遠い遠い未来。

隕石により大陸が海底に沈んだ世界には一つの浜辺が残り、そこには人の形をした宝石たちがいました。

宝石たちの体内には微小生物がおり、体のどこかが千切れてしまっても再び繋ぎ合わせれば元に戻る性質を持っています。

首と胴体が離れてしまうだけで死んでしまう私たち人間と比べるとその体は不老不死のよう。

自分たちを装飾品とするため襲ってくる天敵「月人」たちと戦うため、宝石たちは寄り添い合い、力を合わせて生きていました。

主人公・フォスフォフィライトはそんな宝石たちの中で最年少。

天真爛漫な性格で周りを困らせていたトラブルメーカーでしたが、300歳を境に別人のように変化します。

最初の変化は、月人が巨大なナメクジのような生き物を落としていったことがきっかけでした。

その生き物にフォスは吸い込まれ、溶かされて貝殻の一部にされてしまいます。

貝殻から摘出され無事蘇生できたフォスは、自身を飲み込んだナメクジのような生き物と会話できるようになっていました。

その生き物はアドミラビリス族のウェントリコスス王といい、塩水で小さくなったことからフォスと共にしばらく過ごすことになります。

ある時フォスは王に「死」とはどういうものなのかを問います。

ウェントリコスス王「おっと寝落ちた

やっぱ体力ないのう」

フォス「紛らわしいな!死ぬってやつかと思った!

とは言ったものの 実は死ぬってピンときてないんだ

王に食べられても戻れたし…

死ってどういうもの?

すごく眠いとか動けないとかに近い?」

王「そうよなあ

いなくなるってことかのう

フォス「見えないけどどっかにはいるんでしょ?」

王「どこにもいないし

絶対に見つからない

フォス「呼んでも聞こえないの?」

王「呼ばれてもな

もう自分が誰だかかもわからなくなってるんじゃ

ただ

死は何もかも台無しにする代わりに生を価値あるものにする

そう悪いものでもない」

王に吸い込まれて溶かされ、貝殻の一部にされても復活することができたフォスにとって「」は未知の概念でした。

私たちと同じく寿命がある王はフォスに「死」について

どこにもいないし 絶対に見つからない

呼ばれても もう自分が誰だかかもわからなくなっている

と何もかもすべてを総崩れにするものだと説明する一方で、生を価値あるものにする終わりが「死」だと表現します。

この問答は一見「死」を知らないフォスと「死」がある王の対比のように見えます。

しかし物語が進むと、この会話は全く違う意味合いに見えてくるのです

フォスが直面する残酷な別れ 変化したフォスは月人から真実を聞く

フォスはウェントリコスス王とこの会話を交わしたあと、故郷の海に帰りたいと言われ王を連れて海の底へ向かいます。

実は王は弟を救うため月人と取引しており、フォスを騙していました。

弟・アクレアツスの引き換えとしてフォスは月人に差し出されてしまいます。

解放されたアクレアツスが月人を撃退したことでフォスは地上に帰ることができますが、両足を失ってしまいました。

アクレアツスは自身の殻の一部を渡して去っていき、その殻に含まれたアゲートを接合したことによりフォスは駿足になり、戦場に出られるようになります。

しかし初戦では全く役に立てず、仲間を危険に晒したことを悔やんだフォスはアンタークという仲間と共に冬の仕事に挑戦。

ところが今度は両腕を失ってしまい、腕の代わりになる素材を探していた最中、アンタークは月人に攫われてしまいました。

大切な仲間を失った苦しみはフォスを大きく変化させます。

根拠のない自信に満ちていた天真爛漫なフォスは消え、アンタークが繋いでくれた合金の腕を武器にして月人と対抗する戦士にフォスは変貌。

いつか月人からアンタークを取り戻すことを胸に、寝ずに戦い続けるようになります。

最前線に出る強力な戦士となったフォスは、これまで誰よりも慕ってきた金剛先生と月人の関係を疑うように。

金剛先生の謎を探る中で、今度は協力してくれたゴーストという仲間が月に攫われていきます。

攫われたゴーストの代わりに現れたカンゴームは最初フォスに怒りをぶつけますが、同じく仲間を失ったことを苦しむフォスに共感し、共に戦う仲間になります。

絆を深めたカンゴームは、ある時フォスにひそかに思っていたことを打ち明けます。

「長期休養所の管理をしていて

ずっとゴーストと気付かないふりをしていたことがある

月人の気まぐれでいくつかの破片が戻ってくるが

誰一人再生できる量が集まったことがない

フォスたち宝石は、時折月人が戦闘の際に落としていく仲間の破片を集め、いつか蘇生させることを希望にしていました。

しかし実際は誰一人再生できた仲間はいないというのです。

後にフォスはカンゴームの協力を得て月へ行き、月人たちが宝石たちを攫ったあとどうしていたのかを知ることになります。

「ようこそ 月世界へ」

「みんなはどこだ」

「そこら中に」

「返してもらう」

「どうぞ 好きなだけ」

月へやってきたフォスを出迎えたのは他の月人から「王子」と呼ばれている月人、エクメア。

エクメアは攫った宝石たちを裁断機で粉々にして月面に撒いていたという衝撃の事実をフォスに打ち明けます。

「君たちで飾り付けた

この星は美しいよ」

エクメアたちは金剛先生にある役割を果たしてもらうため、挑発として宝石たちの破片で月面を飾り付けていました。

さらに月人が地上に落としていく宝石たちの破片は模造品で、集めても生き返らないことが明らかになります。

まるで不老不死のように見えたフォスたちですが、実際は月に攫われたあととても蘇生できない状態にされていたことが分かるのです。

『宝石の国』には「死」と隣り合わせな「生」の実体が描かれている

物語の最初では「」と無関係な存在として描かれていたフォスたち。

しかし実際は月に攫われたあと粉にされており、再生は難しいことが明らかになります。

いくらある程度宝石が集まれば生き返ると言っても、粉砕されている状態では決して生きているとは言えず、その状態は「死」に等しいでしょう。

仏教には「生死一如」(しょうじいちにょ)という言葉があります。

生死」と書くと一般的には「せいし」と読まれることが多いですが、仏教では「しょうじ」と読むそうです。

仏教用語。生命体が成立することと,生命体が活動を停止すること。

生死(しょうじ)とはーーーコトバンク

また「一如」は一つのごとしと読んで字の如く、同じであるという意味です。

一如(いちにょ)とは、絶対的に同一である真実の姿、という意味の仏教用語である。

一如ーーーWikipedia 

つまり「生死一如」とは、生と死は表裏一体で不可分であるということ。

「死」を抜きにして「生」を考えることはできず、「生」を抜きにして「死」を直視することもできないのです。

一見「死」と無縁な存在に見えたフォスたち宝石も、攫われた仲間が二度と帰ってこないことが次第に分かってきます。

すべての生あるものは死と紙一重であることを明らかにしていくのが『宝石の国』の裏テーマなのではないでしょうか。

私たちは普段「死」ということを忌み嫌い、考えないようにして生きています。

筆者の住んでいる賃貸マンションは一つの階に5部屋しかないのですが、部屋番号が8階だと806まであります。

不思議に思ってエントランスの集合ポストを眺めていたときに気づいたのですが「804」が無いのです。

病院でも4階に病室が無いところがありますね。

「死」と音が似ている「4」を使わないように、私たちは普段「死」に結びつくものを忌避しています。

しかし仏教では私たちの実体を「生死一如」だと教えられます。

その理由は必ずやってくる未来である「死」を見つめることが、本当の意味で「生」を価値あるものにするための第一歩だからです。

ウェントリコススはフォスに

「死は何もかも台無しにする代わりに生を価値あるものにする

と言い残していました。

そしてフォスは自分たちにも王の言う「絶対に見つからない」状態である「死」があることを痛感していくことになります。

物語のはじまりで、ウェントリコスス王がフォスに残した言葉は『宝石の国』の壮大な裏テーマなのかもしれませんね。