こんにちは。
「あらゆる宗教と哲学をより科学的視点で解析する変態」こと、1人海賊王です。
キリスト教の基本中の基本である「原罪」
このフレーズは、もはやキリスト信徒でなくとも認知が広まっております。
各宗派によって受け止め方が違うので「原罪」について、より俯瞰して、かつ仏教からの視点で分かりやすく解析したいと思います。
「原罪とは」
原罪(げんざい)は、キリスト教内の西方教会において最も一般的な理解では、アダムとイヴから受け継がれた罪。(Wikipediaより引用)
つまり、イヴが善悪を知る知識の木の実を食べてしまい、アダムを誘惑し堕落した。
聖書ではこれが人類にとって一番最初の罪。罪の原因。すなわち「原罪」。
それを我々人類は代々生まれた時から背負っている。とされています。
※「原罪」についての解釈は様々ありますが、ここでは「私たちが作る罪の原因は原罪にある」という解釈で考えを進めていきたいと思います。
「原罪を背負っている科学的証拠などない!?」
私たちが個人的に罪を犯すのは、原罪があるからだと言われます。
つまり、元をたどれば私たちが罪を犯してしまうのはアダムとイヴの時代から引き継がれているということです。
そうだったのかー!しょうがないよね。(´・ω・`)
となる前に、ちょっと待った!です。
「生まれながらにアダムとイヴの犯した罪を抱えている」と言われても、なんだかピンときませんよね。
そんな口伝だけで人は信用などして良いのでしょうか?
「1つの視点で行き詰まったら別の視点で考えてみよう!」
さあ、お待ちかね。
ここで仏教の視点から見てみます。
さきほど、「 我々人類は代々生まれた時から背負っている 」と書きました。
これを仏教的に言うなら「人々はそれぞれに業を背負って生きている」となります。
業とは・・・
仏教およびインドの多くの宗教では「善または悪の業を作ると因果の道理によってそれ相応の楽または苦の報いが生じるとされる。(Wikipediaより引用)
仏教では「行い」のことを「業(ごう)」と呼び、自分の行い=業によって自分の運命が決まるとされます。
これを表した言葉が自業自得です。
「自業自得」と聞くと悪い行いをして、悪い結果が返ってきたときに使う言葉ですが、本来は良い結果も悪い結果もすべての原因はその人自身にあるという意味になります。
「原罪」と「業」を対比して見えてくるもの
ここで「原罪」と「業」の関係を整理してみると一般的な解釈では次のように表現されることになります。
原罪 | 他に原因がある |
---|---|
業 | 自分に原因がある |
私たち自身ではなく、別のものに原因があるなら、正直、私たちはどうすることもできません。
でも、自分に原因があるとするならば自分との向き合い方を変えることで、受ける運命を変えていくことができます。
「自分たちには罪がある」という考え方において、本質的に重要なのはそれが自分自身の問題となるかならないかということだと思います。
そうであるならば、「他のものではなく自分自身に原因がある」という考えの方が、自分自身に反省を促すことができ、一歩前に進める考え方ではないでしょうか。
「まとめ」
キリスト教で言われる「原罪」という考え方では、私たちには生まれながら罪があると言われています。
そして、その原罪によって私たちは罪を作っているとも解釈されています。
しかし、仏教の観点から言えば私たちの罪は私たち自身の業=行いによってつくられると言われます。
つまり、「罪を作っている」といっても他の誰かではなく私自身に原因があるのです。
原罪のせいにするのではなく、罪を作るのは自分の責任。仏教ではこのことを「自業自得」や「自因自果」といいます。
そう。問題は常に自分にあるのです。
外的な責任を追求をするのではなく、常に内省をしていこうというのが今回の結論です。
キリスト教の言葉をキリスト教で終わらせるべからず、汎用性と広い心を持って言語変換を進めれば心は必然的に大きな器と化します。
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