言峰 綺礼の人生から学ぶ「本当の私」|【後編】Fate/Zeroから学ぶ仏教

「Fate/Grand order」が現在好評稼働中のFateシリーズ。そのスピンオフ作品であり、根強い人気から現在アニメも再放送中の「Fate/Zero」。

この作品に登場するキャラクターから、私たちが学べることを仏教の視点から考えていくシリーズがこの記事になります。

この記事の内容は
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前回に引き続き、大好きな作品Fate/Zeroから、仏教の深さをお伝えできたら幸いです!

 

言峰綺礼の長年の懊悩 ―これまでの記事を簡単なおさらい

 

Fateシリーズの重要な登場人物であり、エリート聖職者「代行者」の言峰 綺礼。

主人公やヒロインの敵として暗躍することが多い彼ですが、敵役とは思えないほどファンが多く「外道麻婆」という愛称で呼ばれることもある綺礼ですが、彼には幼い頃から抱えてきた、ある悩みがありました。

それは「本当の私」とは何かということ。

前編・中編ではこの問いの答えを求めて悩み苦しんでいた綺礼の姿を追いながら、仏教では「本当の私」はどのような姿だと教えられているかをお伝えしていました。

さて作中の言峰 綺礼は「本当の私」を知りたいという問いを幼い頃から問い続け、その答えを得るために厳しい肉体の修練を積みました。

しかしマシーンのように身体が鍛えられていくばかりで、幼い頃から問い続けた問いに対する答えは分かりませんでした。

厳しい肉体的修練を積んだ綺礼がどうしても分からなかった「じぶん」とは何かという問い。

前編から「じぶん」について、綺礼のFate/zeroでの活躍から考えてきたこのシリーズですが、後編の今回は「じぶん」ってそもそもどこにあるの?というところにスポットを当てて、終わりとしたいと思います。

 

「じぶん」は体のどこかにある?

綺礼は肉体の鍛錬を続けて、自分というものは何かを問い続けていましたが、「私」はそもそも肉体のどこかにあるのでしょうか。

「『じぶん』ってどこにある?」と聞かれたら、皆様はどこを指差しますか?

胸のあたりを指差して、「このへんかな?」という人。「脳じゃないかな?」と頭を指す人。こういった反応が返ってくることが多いかと思います。

でも本当に胸のあたりや脳に「私」がいるのか、と考えると、ちょっと自信がなくなってくるのではないでしょうか。

ここで考えさせられる小話を一つ。お釈迦さまのお弟子の一人に大号尊者という方のエピソードです。

大号尊者が商人であったとき、他国からの帰途、道に迷って日が暮れました。

宿もないので仕方なく墓場の近くで寝ていると、不気味な音に眼が醒めます。

なんと、一匹の赤鬼が人間の死体を持ってやって来たのです。

急いで木に登って、震えながら眺めていると間もなく、一匹の青鬼がやって来ました。

「その死体をよこせ」と青鬼は言います。

「これはオレが先に見つけたもの、渡さぬ」

と、赤鬼と大喧嘩がはじまってしまいました。

その時、赤鬼は木の上の大号を指さして、

「あそこに、さっきから見ている人間がいる。あれに聞けば分かる。証人になってもらおうじゃないか」

と、いい出しました。

大号は驚きました。隠れているのがばれてしまった以上、いずれにしても食い殺されてしまいます。

ならば真実を言おうと決意し

「それは赤鬼のものである」

と、証言しました。

青鬼は怒り、大号さんをひきずり下し片足を抜いて食べてしまいました。

気の毒に思った赤鬼は誰かの死体の片足を取って来て大号さんに接いでやりました。

激昂した青鬼は、さらに大号さんの両手を抜いて食べてしまいました。

赤鬼はまた、他の死体の両手を取って来て大号さんにつけてあげました。

青鬼は大号の全身を次から次に食べます。

赤鬼は食べられた体のパーツを次から次に足して、大号さんの身体を元通りに修繕してあげました。

青鬼が帰った後

「ご苦労であった。お前が真実を証言してくれてよかったよ」

と赤鬼はお礼を言って去りました。

一人残された大号さんは、歩いてみましたが、元の身体と何ら変わりませんでした。

しかし今の自分の手足は、どこの誰の手やら足やら分からない借り物。

誰の肉体か分かりませんが、自分のものでないことだけは間違いありません。

街へ帰った大号は、

 

「この身体は誰のものですか!」

 

と大声で叫びながら歩いたので

大号尊者と、それから言われるようになったのだそうです…

この話、お伽話だとバカにはできません。

私たちが生きるこの現代では医学が発達し、山中伸弥教授がノーベル賞を受賞したことで話題になったiPS細胞をはじめ、再生医療の研究が急速に発展しています。

再生医療が発達すれば、内臓が病気になったら新しい臓器を作って取り替える、なんてことも夢物語ではなくなってきそうです。心臓に心筋梗塞のおそれがあれば、心臓をまるごと新しい心臓に入れ替え、認知症が始まれば脳をまるごと新しい脳に入れ替え…体のあちこちのパーツが古くなれば大号尊者のように新しいものに入れ替える。そんな時代がそう遠くない未来、やってくるかもしれません。

もしそんなことができるようになれば、臓器を入れ替えたり、脳を入れ替えたりしたら、私たちは別人になるのでしょうか?

また鷲田清一さんの有名な著作「じぶん・この不思議な存在」という本にも、このような一節があります。

もし身体がわたしの所有物だとすると、所有物は譲渡や交換が可能であるはずだから、足から順にじぶんの身体をつぎつぎに別の身体と取り替えていっても、わたしはわたしであるはずだ。けれども想像が腹部あたりにたっしたころから、だんだんあやしい気分、おぞましい気分になってくる。

身体はわたしが所有しているものではないと、前言を翻したくなってくる。

つまり、じぶんが身体であるのか、身体をもつのかはっきりしないまま、わたしたちはなんとなくじぶんがこの身体の皮膚の内側にあると思いこんでいる。

(鷲田清一「じぶん・この不思議な存在」より)

今も、私たちの身体を構成している細胞は日々細胞分裂を繰り返し、古くなった細胞は死に、新しい細胞になっています。こうしたなんと細胞分裂の末、7年経てば私たちの身体の細胞は新しい細胞に全て入れ替わるのだそうです。

つまり肉体的には7年前の私と今の私は違う存在ということになります。ですが、7年前の自分は今の自分と別人かと言われるとどうでしょうか。そんなことはない!と思いますよね。

肉体が変わっても変わらない「本当の私」があると仏教では教えられています。

私の肉体は「私」の持ち物?

 

私事で恐縮ですが、高校生のとき、内臓に難しい病気があることが分かりました。

原因は不明、完治することはなく、臓器がこれ以上悪くならないよう毎日薬を飲み、できるだけ規則正しい生活をしなければならず、食生活も厳しい制限をずっと受けています。

しかし私の病気は全く自覚症状がありません。この病気は初期は痛くもかゆくもなく、手遅れになって初めて痛みが出てくるそうです。

ある日突然食べたいものを満足に食べられない人生になったときは本当に辛かったですが、同時にじぶんの「からだ」に対して不思議な気持ちを感じました。特に吐き気がする訳でもなければ、痛い訳でもない。

なのに、「よく分からないけど壊れてかけているらしい臓器」に気をつかって生きなければ早死にしてしまう「わたし」。じぶんの内臓なのに、何にも分かりません。

どうやら壊れていたことも、検査をするまで分かりませんでした。なんだか自分の心ではどうすることもできない、自分とは違う何者かが、肉体のような気がしたのです。

お医者さんにも「今後は一病息災で体と上手に付き合っていくしかないですね。」と言われ、なんだかまるで、自分の持ち物である「肉体」が何らかの理由で調子が悪くなり、「肉体」の持ち主である「わたし」が、寿命を少しでも延ばすため「肉体」さんと毎日相談しながら、食事内容を考える・・・そんな感じがしたのでした。

皆さんも、大きな病気は経験したことがなくても、試験前や仕事のある日にインフルエンザにかかったり、体調を崩したりしたとき、意のままにならないじぶんの「肉体」が「私」の所有物のように感じられたことはないでしょうか。

 

肉体が滅んでも変わらない「本当の私」

「本当の私」とは何なのか。

仏教では、大号尊者のように体を全て他人と入れ替えたとしても変わらない「本当の私」があると教えられています。体を全て入れ替えても変わらないということは、死んで肉体が火葬場で焼かれても、変わらない「本当の私」があるということです。

言峰綺礼はある事件により、「肉体」は死人の状態で10年間生きるという数奇な運命をたどりますが、それこそ綺礼は、「肉体」が滅んでも変わらない自分があるのではないかと問い続けたのではないでしょうか。

仏教で教えられる本当の私」を「阿頼耶識」(あらやしき)といいます。阿頼耶識とは肉体が滅んでも消えない、永遠不滅の生命のことです。

「阿頼耶(あらや)」とは昔のインドの言葉で「蔵」という意味、「識(しき)」とは心という意味です。

この阿頼耶識に私たちの日々の行いが、目に見えない力となり「阿頼耶識」に蓄えられていき、それが自分を動かしていると、仏教では教えられています。

阿頼耶識は唯識学という難しい学問を勉強すると分かりますが、ここではFateファンの方なら誰もが知っている、ギルガメッシュというキャラクターで説明させて頂きます。

彼のプロフィールは今回は割愛しますが、とにかく戦闘では強く、Fate/zeroにおいては向かうところ敵なしでした。ギルガメッシュが最強なのは、彼の持つ装備『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』があるからです。

金ぴかことギルガメッシュの所持する宝具。

黄金の都に繋がる鍵剣。空間をつなげ、宝物庫にある道具を自由に取り出せるようになる。所有者の財があればある程強力な宝具になるのは言うまでもない。

ようするに古代バビロニアの宝物庫と、それにつながる鍵剣のこと。

王の財宝とは(ゲートオブバビロンとは)[単語記事]-ニコニコ大百科

「王の財宝」とは、ギルガメッシュが生前、古代バビロニアの王だったとき、集めたあらゆる世界中の宝物が収まった宝物庫、つまり「蔵」です。ギルガメッシュはこの「蔵」の中から生前集めた武器のコレクションを引っ張り出して戦う相手の弱点となる武器を取り出して飛ばせるため、Fate/Zeroでは最強の強さを誇りました。

しかも若返りの薬とか、珍しい美酒など、彼の「蔵」からは正直何でも出てきます。ギルガメッシュ自身も蔵の中身全てを把握していないくらい、たくさんのものが収まっているのが「蔵」なのです。

しかし実は、仏教で教えられる阿頼耶識には「王の財宝」どころではない、たくさんのものが蓄えられています。

阿頼耶識には、私たちの行為が全ておさまっています。過去、現在、未来のいつでも、やってきた行為の全てが目に見えない力となり、おさまっていきます。

しかも仏教でいう「行為」は身体だけではなく、口で話すこと、体で行うことだけでなく、心で思うことも含まれます。

そんな無限大とも言える私たちの心や体の行いをすべておさめて、蓄え、絶えず変化しながら未来で続いていくのが「本当の私」、阿頼耶識であると仏教では教えられているのです。

そんな私たちの「本当の私」にはたくさんの心の行為が蓄えられています。その心の行為についても、仏教では詳しく教えられていますので、「Fate/zeroから学ぶ仏教」シリーズで、続けてお伝えしていきたいと思います。

綺礼はこの後、先ほど名前が出てきたギルガメッシュという人物に出会ったことで大きく人生が狂っていきます。ギルガメッシュが言葉巧みに綺礼の心の奥底を暴いていく展開は多くの読者、視聴者を引きつけました。

ファンの間では「愉悦部」活動といわれているギルガメッシュと綺礼の会話を、引き続き仏教の視点から深読みしていきます。

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