「Fate/EXTELLA(フェイト/エクステラ)」が、PlayStation4/PlayStationVita用ソフトとして2016年11月10日(木)に発売決定しました。
最初のFate作品が世に出てから10年以上経ちますが、今年の新作発表に加え来年はアニメ新作も予定されており、目が離せないFateシリーズ。
さらに先月は人気アプリゲーム「Fate/Grand Order」で「Fate/Zero」がコラボイベントとして登場、原作者の虚淵玄さんがストーリーを手がけたこともあり非常に高い評価を受けています。
そんなまだまだ根強い人気を誇る「Fate/Zero」の登場人物を仏教の視点から解説していくのがこのシリーズです。
シリーズ第1回はこちら↓
※前回同様、「これからFate/Zeroを見ようと思っているのでストーリーの内容を知りたくない!」という方はお気をつけ下さい。
前回からはFate/Zeroの展開を握るキーマン、英雄王ギルガメッシュと、悩める聖職者の青年、言峰綺礼の出会いがテーマです。
後に「愉悦部」と言われ、ファンから絶大な支持を得ることになるギル様と綺礼の出会い。
二人が初めて言葉を交わした「Fate/Zero2 英霊参集」のワンシーンを通して、今回も綺礼の迷いに対する答えを、仏教の視点から考察します。
英雄王ギルガメッシュと綺礼の出会い
どんな願いも叶えると言われる“聖杯”を勝ち取るための死闘「聖杯戦争」。
綺礼はある日、聖杯戦争の参加者「マスター」として選ばれた証「令呪」を授かります。
しかし「本当の私」が分からず苦悩していた綺礼は、叶えたい願いや希望は一つも無く、何故自分が選ばれたのか分からないまま、父親から命じられた任務として聖杯戦争に参加していました。
着実に役目をこなし暗躍していた綺礼ですが、叶えたい願望も、本当の自分が知りたいという長年の疑問の答えも分からないまま。
そんな綺礼がある日、自室に帰ると金髪の美しい青年がソファでくつろいでいました。
彼の名はギルガメッシュ。聖杯により現代に召喚された人類最古の王であり、自分以外の人間全てを見下している青年です。
最初は偉そうなギルガメッシュの態度に不快感しか抱かなかった綺礼ですが、聖杯でどんな願いを叶えたいのか?と聞かれたことを発端に、ギルガメッシュの話に引き込まれていきます。
綺礼も敵わない!ギルガメッシュの深い人間考察
叶えたい願望など無いという綺礼に対し、ギルガメッシュはある提案をします。
「理想もなく、悲願もない。ならば愉悦を望めばいいだけではないか」
「馬鹿な!」
綺礼が声を荒げたのは、まったくの無意識のうちだった。
「神に仕えるこの私に、よりにもよって愉悦などーーーそんな罪深い堕落に手を染めろと言うか?」
「罪深い?堕落だと?」
色めきだった綺礼を前にして、アーチャーはますます面白がるように底意地の悪い笑みを返す。
「これはまた飛躍だな、綺礼。なぜ愉悦と罪とが結びつく?」
「それは・・・」
綺礼は返答に詰まった。 同時に、いったい自分がいま何に触発されて狼狽を露わにしてしまったのか、それすらも解らず途方に暮れた。
「なるほど悪行で得た愉悦は罪かもしれん。だが人は善行によっても喜びを得る。悦そのものが悪であるなどと断じるのは、いったいどういう理屈だ?」
綺礼は「愉悦は罪深い堕落であり、神に仕える私にはそんな心はない」と思わず反論しました。
しかしギルガメッシュは、「愉悦」という心は、良いことをしたときにも感じる心なのだから、人間誰もが持っている心ではないか?と反問し、綺礼は返答に困ってしまいます。
「―――愉悦もまた、私の内にはない。求めてはいるが見つからない」
ようやくのことでそう答えたものの、声には普段の彼にあるような自信の裏打ちが欠け落ちていた。
「愉悦が自分の心にあるのでは」という問いは、信仰に厚く、優秀な神父である綺礼が自信を削がれてしまうほどの強烈な問いでした。
長年培ってきた信念がグラグラし始めた綺礼に、ギルガメッシュはさらに追い討ちをかけます。
愉悦は、魂の姿。有るか無いかではなく、“識る”か“識れないか”
「愉悦というのはな、言うなれば魂の容(かたち)だ。“有る”か“無い”かないかではなく、“識る”か“識れないか”を問うべきものだ。
綺礼、お前は未だ己の魂の在り方が見えていない。
愉悦を持ち合わせんなどと抜かすのは、要するにそういうことだ。」
「愉悦」とは人間の心であり、有るか無いかを論じるまでもないもの。
愉悦など自分の心に無いと思っている綺礼は、人間の心が分かっていないだけだとギルガメッシュは切り込みます。
信徒に人間の在り方について教える立場であり、聖職者の鑑として賞賛されている綺礼にこんなことを言うなんて、数学の先生に「先生って因数分解分かってへんなあ!」と言うようなものです。
綺礼も、さすがにイラッとしたのか「サーヴァント風情が、私に説法するか?」と言い、苛立ちを露にしますが、自分の本当の姿が分からず、長年煩悶してきた綺礼はギルガメッシュの話にどんどん耳を傾けていきました。
自分の本当の姿を知りたくて長年神へ真摯な信仰を捧げ、厳しい修行を積んできたのに、分からずに苦しんでいた綺礼。
その悩みを一言も打ち明けていないのにギルガメッシュは
“「愉悦などとという罪深い堕落は自分の心の中に無い」と思ってしまうのは、まさにお前が人間の本当の姿を分かっていないからだ”
と見抜いてみせたのです。
ギルガメッシュが綺礼に語った鋭い人間分析は言い回しが難しく、「アニメを何度も見ないと意味が分からなかった」という視聴者も多かったようです。
しかし実は、仏教で教えられる「煩悩」で人間の愉悦を考えると、ギルガメッシュの「愉悦部講義」を分かりやすく理解することができます。
仏教で明かされる「愉悦」の正体とは
鎌倉時代に書かれた有名な仏教の書籍である「歎異抄」には、人間のことを
煩悩熾盛(しじょう)の衆生(しゅじょう)
と書かれています。
「煩悩」とは字の通り私たちを煩わせ、悩ませる心のことで、人間には108の煩悩がある、と仏教では説かれています。
「熾盛(しじょう)」は燃え盛っている、という意味。
そして「衆生(しゅじょう)」とは、すべての人間、という意味です。
すべての人間の心は煩悩で常に燃え盛っており、煩悩の無い人間は一人もいない。
「 unlimited blade works 」ならぬ、「unlimited 煩悩 works」なのが私たちなのです。
ここで、ギルガメッシュの「悪行で得た愉悦は罪かもしれん。だが人は善行によっても喜びを得る」という発言に戻ります。
改めて愉悦という言葉自体の意味を確認してみましょう。
心から喜び楽しむこと。「―を覚える」「勝利に―する」
人に親切なことをしたり、優しい言葉をかけてねぎらったりするなど、善いことをしたときに人間は喜びを感じますが、それは感謝されたことで煩悩の1つである承認欲が満たされたからですね。食欲や承認欲など、欲が満たされたときに人は喜びを感じます。
だから「愉悦」は煩悩の1つであり、煩悩の塊である人間の誰しもにある心なのです。
ギルガメッシュが「愉悦など自分の心には無いと抜かすのは、自分の本当の姿が分かっていないからだ」と言ったのは、仏教で説かれている人間の姿と一致する部分があるのです。
さすがは人類最古の英雄王。
人心掌握に長けた彼は、人間の心を深く見つめていたのではないでしょうか。
大きく狂い始めた、綺礼の運命の歯車
そんなギルガメッシュに「自分の本当の姿が分からない」という長年の苦悶を見抜かれ、心の隙に入り込まれてしまった綺礼。
「他のマスターたちがどんな願望を満たすために聖杯戦争に参加しているのか調べてこい」というギルガメッシュの命令を引き受けてしまいます。
綺礼は自分の師匠が手を焼いているギルガメッシュのご機嫌を、少しでも取れたらと思い任務を引き受けました。
しかし実はこの課題、ギルガメッシュの好奇心を満たすためではなく、綺礼に自分の心を見つめさせることが本当の意図だったのです。
このことに気付かず命を遂行した聖職者、綺礼の運命の歯車は大きく狂い始めるのでした。
ギルガメッシュに与えられた課題を完遂する中で、綺礼が知った自分の本当の姿とは何だったのか。次回に続きます。