【2019/12/09更新しました】
4DX版が全国各地のユナイテッド・シネマグループの4DXスクリーンで上映中の「ミュージカル『刀剣乱舞』 ~三百年の子守唄~ 2019」。
「ミュージカル『刀剣乱舞』」通称刀ミュシリーズの中でも高い支持を得た2017年の公演「ミュージカル『刀剣乱舞』 ~三百年の子守唄~ 」の再演となる作品です。
筆者は今年はじめ、初の刀ミュ観劇で「みほとせ再演」を鑑賞。
演出が大幅に変更され、多くのファンから「泣ける」「泣いた」と絶賛されたストーリーがさらに深く描かれていました。
今回は「みほとせ」が教えてくれる、天下人・徳川家康の知られざる一面を考えてみたいと思います。
【ネタバレ注意・あらすじ】徳川三百年の誕生を導く物語「みほとせ」
「…破壊された歴史を再生する…ですか?」
天文11年。
後に徳川家康となる竹千代君が生まれたばかりの岡崎城に、歴史を改変しようとする時間遡行軍が襲撃します。
竹千代君を残し、徳川家の前身となる松平家は全滅することに。
時間遡行軍により破壊された歴史を再生するため、刀剣男士たちは服部半蔵をはじめとする徳川四天王に成り代わり、「徳川家康」を育て上げるという重大な使命を背負います。
※「刀ミュ」や詳細なあらすじの紹介は、こちらの前回記事でご紹介させて頂いています。
タイトル『三百年の子守唄』の通り、「徳川三百年」の誕生へ竹千代君を導くための「子守唄」が紡がれていく物語。
徳川四天王を含む、家康の生涯を支えた家臣たちが死に絶えた時間軸には、「吾兵」という人物が出現します。
戦で家族を殺され天涯孤独になった掛川の百姓・吾兵は徳川家康の嫡男である信康と巡り合い、大きな影響を与えていきました。
非の打ち所がない立派な若武者となった信康の側には、まるで側近のように控える吾兵が。
その吾兵は時間遡行軍が乱入した長篠の戦いで、家康を時間遡行軍から庇い戦死します。
「…戦で家族を失った吾兵が戦で命を失う…父上、
この戦乱の世に、終わりはあるのでしょうか。」
信康は吾兵の死を機に、戦を終わらせるために戦をし続ける父の後を継ぐことはできないと思うように。
親子の縁を切ってほしいと嘆願しますが家康は許さず、本心を露わにします。
「わしが!
わしがどのような気持ちで戦をしているのか…
貴様にはそんなこともわからんのか!」
徳川家康は、本当に腹黒いタヌキだったのか。『みほとせ』が迫るのは覇王の真実
「おー、よしよし、そうかそうか、戦は怖いのう、
嫌じゃのう、わしも戦は大嫌いじゃ。」
信康が生まれて間もない頃、家康は家臣に成り代わった刀剣男士たちの前で、赤ん坊の信康に話しかけるようにこう言っています。
徳川に仇なす妖刀と言われる刀剣男士・千子村正は日本史に残る徳川家康像との差に違和感を覚え
「とても、海道一の弓取りと言われた人とは思えませんねえ。
育て方を間違えたんじゃありませんか?」
と指摘しますが、徳川家康の守り刀として伝わる脇差の刀剣男士・物吉貞宗は
「いえ、家康公は元々あのようなお人柄でしたよ。」
と「タヌキおやじ」「腹黒」といった世間のイメージは誤解だと説明しています。
徳川四天王が全滅、刀剣男士たちが代役となって家康を育てた時点で、実際の家康と少し違う人物に成長した可能性はあります。
しかし筆者は一方で、歴史書に残っている人物像が全てとは限らないと『みほとせ』を見て感じました。
信康の死は諸説ありますが、大作家・司馬遼太郎さんが書かれた『覇王の家』という作品では老臣・酒井忠次と若き信康との間に確執があり、忠次の発言により信康が切腹することになったと書かれています。
家康は何とか信康を脱走させようとしますが叶わず、徳川家の滅亡を回避するため、機械のように心を凍らせ信康を切腹させました。
しかし晩年までその苦しみを引き摺っていたと言われ
「この齢になってつらい目をすることよ。
信康が生きていればかようなことを手ずからせずにすんだのに」
信康の死から20年経った関ヶ原の戦いで、このような言葉を残したといわれています。
家康が最愛の息子を殺してまで、徳川家を守り、天下取りを目指した理由は何だったのでしょう。
真実は当人に聞いてみなければ分かりませんが、「みほとせ」では覇王・家康の最期を刀剣男士が見守り、その本心を知ることになります。
「……わしはな……戦が大嫌いじゃった…
…どうしたら戦から逃れられるのかをいつも考えていた…
…臆病で情けない主ですまなかったのう…。
……戦は全てを奪う……あんなものはいらぬ……わしは…
…祖父を殺され…父を殺された……子供の頃から
…いつかは自分も殺されるものだと思っておった…
…そんなのは間違っておる……親の腕に抱かれ…
…子守唄を聴いて……やすらかに眠る…
…子供にとっての幸せは…そんなことじゃ…
…わしは…そんな当たり前のことすら許されぬ世を呪った…
…この世から戦をなくしてやりたい……そう思った…。
…見てみい…この泰平の世を……
この世から…戦をなくしてやったわ!
どうじゃ!参ったか!これがわしの望んだ世じゃ!」
幼少期から戦乱の世で人質という駒として扱われ、激動の時代で生き残る身の振り方を常に迫られていた苦しみの人生。
そんな徳川家康にとって、大切な我が子を犠牲にしてでも実現したかった未来が泰平の世でした。
子守唄を聞いて育つ子供たちが溢れる、平和な時代。
「三百年の子守唄」は徳川家康が求めていた未来でもあったのです。
徳川家康は不幸の塊?千子村正の言葉から知る、天下人の人生
「…つまり…家康公は、幸運であると自分に言い聞かせていたわけデスね。
不幸の塊のような人生だったのに。」
江戸時代の誕生と徳川家康の最期を見届けた刀剣男士たちは本丸へ帰還、村正はその目で見た徳川家康の生涯を「不幸の塊」と表現しています。
人質生活の中で死に怯える少年時代を送り、一番愛した我が子を殺さざるを得なかった事実だけを見ても、村正の言葉はたしかに真実です。
史実では我が子に加えて、築山殿という妻も信長の命令を受けて殺しています。
ずっと側にいた刀剣男士・物吉貞宗は竹千代君だった頃の家康に
「辛いことや悲しいことはたくさんあります!
でも、笑顔を失ってはだめです!
笑っている人のところに
幸運は舞い込んで来るんですよ!」
と語りかけていますが、実際には逆だったのです。
どんなに辛くても自分は幸運だと言い聞かせていた家康の思いが、守り刀であった物吉貞宗という刀剣男士を形作ったのでしょう。
物吉貞宗が寄り添う中、最期に漏らした家康の後悔は、とても三百年という間、天下を平定した王者の言葉とは思えないものでした。
「……これで……良かったのかのう…
…ここまで来るのに……血が流れ過ぎた…
…本当にこれでよかったのじゃろうか……。」
「……信康。」
「……すまんのう……すまんのう信康…
…かわいそうなことをしたのう…
…信康……すまんのう信康……すまんのう…。」
「……情けないのう……。」
刀剣男士たちは、歴史上謎に包まれた信康切腹事件を、戦死した吾兵の代わりに信康が百姓として生きるように画策。
今際の際の家康に真実を明かし、家康は信康が生きていたことを唯一の灯りとするように死んでいきます。
苦しみを超えた先に掴んだ天下は続いたのか 「三百年の子守唄」に込められた深い意味を考察する
徳川家康といえば「鳴くまで待とうホトトギス」とよく表現される人物です。
しかしその人生は決してただ「待っているだけ」ではありません。
天下を上り詰めた過程は苦しみに満ちた日々で、忍耐を続けた人生の中でただ一つ求めた夢「三百年の子守唄」も永遠には続きませんでした。
三百年も経たない内に幕末の動乱が始まり、徳川家康が守ろうとした日の本の泰平はより凄惨な戦争という形で後に壊されることになります。
戦乱の世で好機をひたすら待ち続けて実現した天下統一は、仮初めでしかなかったのです。
先程ご紹介した徳川家康の生涯を書いた名作『覇王の家』には徳川家康の人生観がこのように書かれています。
「人の一生は重き荷物を背負って坂道をのぼるようなものだ」
またその生涯についても
人間が世を送るのに、多少の不幸が生起するのは人生の生理のようなものだが、家康ほどつらい目に遭うことの多かった男も、めずらしい。
とまさに「不幸の塊」という村正の言葉通り、非常に過酷な生涯だったと書かれています。
三河の武将から天下統一を果たした覇王の人生は、重たい荷物を背負って坂道をのぼるような苦しい苦しい旅でした。
坂道を上り詰めた先にあったはずの幸福は、愛する我が子をはじめ多くの人を殺めてきた消えることのない苦しみ。
戦国時代の覇者として栄光を掴んだ天下人も、その実体は幸せを求めて日々必死に生きる私たちと変わらない姿だったということを『みほとせ』は教えてくれるように思います。
貧困や病気、人間関係など、人生の不安を抱えながら、毎日を生きる私たちも重き荷物を背負って坂道をのぼるような人生です。
そんな坂道の果てに何を求めたら幸せになれるのか。
振り返ってみることが幸せの第一歩だと、仏教哲学では教えられています。
『みほとせ』で描かれた徳川家康の人生は、私たちが生きていく上で大切な心がけを教えてくれているのかもしれません。
『みほとせ』の続編『葵咲本紀』の考察コラムをアップしました!
※コラム中の「三百年の子守唄」紹介部分はこちらの戯曲本から引用させて頂きました!より深く「みほとせ」を味わえるので是非読んで頂きたいです。
7/18(木) ミュージカル『刀剣乱舞』初の戯曲本が3冊同時発売!