最期の“味噌汁かけご飯”は無念の味。『真田丸』24話北条氏政にみる「求まらない苦しみ」とは

こんにちは、YURAです。

真田丸」では、いよいよ豊臣秀吉の天下に王手がかかり、残るは、北条家伊達家の制圧のみとなりました。

今回は、高嶋政伸の怪演で話題の北条氏政(うじまさ)から見る、仏教の「求不得苦」についてお話しします。


※今回の記事に関する動画です。

小田原合戦で追い詰められた北条氏政

北条家は、関東の覇権をかけて真田家と争った戦国大名として知られています。

かなりの勢力を誇っている一方、それ故に、実質北条家の政権を握っていたご隠居・北条氏政のプライドも高く、北条家は全く秀吉に下ろうとしませんでした。

そこでついに、秀吉は北条征伐を決意し、小田原合戦に突入します。

小田原合戦とは、いわば、関白秀吉率いる日本全国の大名VS北条家の戦いです。

秀吉は20万を超える兵で、氏政のいる小田原城を包囲し、北条家はいよいよ絶望的な状況に陥ります。

それでもなお、やすやすと秀吉に天下をとらすまいと、北条家では毎日のように軍事会議が開かれ、氏政は粘ります。

今でも、長引いて容易に結論の出ない会議や相談のことを「小田原評定」と言いますが、この言葉は、小田原合戦時に北条家で開かれた、“開城か、徹底抗戦か”という結論の出ない会議から来ています。

さて、追い詰められた氏政は、心中穏やかではいられません。

敵の奇襲に怯えて、夏にもかかわらず、ひと月もの間、風呂に入ろうとしなかったため、部屋では体の臭いを消すために香を焚き、やつれた顔を化粧でごまかし、戦への不安を紛らわそうと、蹴鞠に興じます。

家臣たちの士気にかかわるからと、外では何事もないように振る舞っている一方、不安を隠すのに必死です。

そしてついに、頼りにしていた伊達政宗も秀吉に恭順し、とうとう北条家は孤立します。

「生き恥はさらしとうない」氏政自らが選んだのは

天正18年7月5日。
ついに北条氏直(氏政の息子、細田善彦)が降伏し、小田原城は開城。氏政自ら切腹を申し出ます。

その心中を悟った徳川家康内野聖陽)は、長年共に競い合ってきた情と、氏政の才覚を買っていたことから、上杉景勝遠藤憲一)と真田昌幸草刈正雄)を引き連れ、氏政のところに説得にやってきます。

しかし、己の人生、己のための戦いをすることに意味があり、それが生きがいだと思って生きてきた誇り高き氏政は、誰かの下で働く気など持ち合わせていませんでした。

己のために費やす人生が得られないとあっては、この世に生きている意味がない

生き恥はさらしとうない

(NHK大河ドラマ「真田丸」第24回「滅亡」 より)

と言い残し、3大名の説得も虚しく、翌日切腹しました。

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あらすじ 第24回「滅亡」|NHK大河ドラマ『真田丸』 より引用)

氏政は、生き残る方法はあったにも関わらず、生きがいが崩れてしまったことで空虚感を覚え、自ら死を選んだのです

切腹直前、最期にすすった、父との思い出の味噌汁かけご飯は、いつもよりしょっぱかったに違いありません。

「満たされない欲が私を苦しめています」

北条氏政は天下統一の夢破れ、生きがいを失い、死を選びました。

さすがに、今の時代に「日本を征服してやろう」なんて考えている人はいないと思います。

でも、「あれがやりたいな。それから次は、これがやりたいな」と夢や目標を持っている人は多いのではないでしょうか。

「希望の仕事に就きたい」
「周りがうらやむような人と結婚したい」
「みんなに自慢できる肩書きがほしい」
「大好きな人達に囲まれたい」

こんな風になりたいと、皆何かを求めて生きています。

いろいろと目標を持つのはやる気の向上にもつながり、いいことでもありますが、夢や目標を全部叶えられるわけではないですよね。

先日お会いした、ある20代の女性は
「私は欲が多いんです。あれこれもしたい、という欲が満たされなくて、自分を苦しめてます
と言われていました。

叶えたいことが叶えれない。
求めているものが求まらない。

仏教では、このような求まらない苦しみを「求不得苦」と説かれています。

【求不得苦】

仏語。八苦の一。
求めているものが得られないことから生じる苦しみ。

求不得苦とは – コトバンク

とどまりなく広がる欲に現実の自分が追いつかず、そのギャップに悩んでしまうのですね。

無限に広がる欲、有限な命

「あの人はすべて手に入れてるんじゃないかな」と思えるくらい魅力的な人もいるかもしれません。

しかし、そんな人にも必ず手に入らないものがあるものです。

北条家の滅亡と引き換えに天下統一を果たした秀吉は、「次は明国(中国)を攻める」と、朝鮮半島に出兵します。

天下を統一してもなお満足ができず、広がる欲を抑えることはできなかったのです
すべてを手に入れたとさえ思える秀吉もまた、「求不得苦」を抱いていたのですね。

欲は限りがありませんが、私たちの命には限りがあります。

無限に広がる欲に使われて、有限な命を自ら捨ててしまうのはもったいないことです

お釈迦さまは、このようにも教えられています。

心のために走(は)せ使われて、安き時有ること無し

(大無量寿経)

パシリをさせられて喜ぶ人はいませんよね。
パシリの人は、不良にいつ命令させられるかハラハラして、心やすまるときがありません。

パシリをさせられた経験のある方は少ないでしょうが、実は、不良にパシリにされなくても、人間みんな、欲の心のために使い走りをさせられ、心からの安心がない、とお釈迦さまは言われているのです。

求めても求まることのない欲のために、有限な命をすり減らしてしまうのは、悲しいことですね。

そんな私たちに仏教は、欲の心にとらわれている人間に、欲を満たすこととは異質な、果たすべき使命のあることを教えています

その果たすべき使命とは何なのか。
ぜひ仏教を続けて学ばれ、使命を知り、限りのある人生を後悔なく送っていきたいですね。