7つの習慣と仏教:人生の終わりを思い描くことと、仏教が教える無常観

こんにちは。20代から始める仏教アカデミースタッフのねりうめです。

今回は7つの習慣の第二の習慣を紐解きたいと思います。

第二の習慣は、人生の終わりを思い描くことの重要性を説いています。仏教においても、無常観という形で教えられていることはご存知でしょうか?

なお、7つの習慣シリーズの前回記事は以下になります。

第二の習慣: 終わりを思い描くことから始める

7つの習慣の著者であるスティーブン・R・コビー博士は第二の習慣を英語で以下のように書いています。

Begin with the End in Mind.

物事は、心の中に”最後”を思い描いて、始めなさい。ということです。ここでいう”最後”とは自分の死を指します。

7つの習慣の本文の中で、第二の習慣は、人生の終わり、つまり自分が死ぬときの葬儀の場面から始まっています。

想像して欲しい。
あなたは今、葬儀会場にいる。
飾ってある写真はあなたのもの。

これはあなたの葬式なのだ。

葬式では、4人の人が弔辞を述べる。
1人は家族。
1人は友人。
1人は仕事の人。
1人はコミュニティー(自治会やサークル)の人。

ここで深く考えてみて欲しい。
集まってくれた人に、何と言って欲しい?
あなたの人生について、どう述べて欲しい?

どんな人格に見られたかったのか。
どんな貢献や業績を覚えていて欲しいのか。
残された人に、どんな影響を及ぼしたかったのか。

あなたは自分の葬儀において、周りの友人や家族、会社の同僚からどのようなひとだった、と言われたいでしょうか。

例えば、友人からは「優しい人だった」とか、家族からは「親孝行息子だった」とか、仕事仲間からは「頼りがいのある人だった」とかですね。そんな人物になれればいいですよね。では、あなたは今そうなっていますか? 理想とする人物になれているのでしょうか?

終わりを想像することで、目指す方角が定まります。最初に進むべき方向を決めないと、あらぬ方向に進んでしまい、後悔することになります。あなたのなりたいもの、達成したい目的、それをまず思い描かないと、そこにはたどり着けない、ということです。

すべてのものは二度つくられる

「終わりを思い描くことから始める」習慣は、すべてのものは二度作られるという原則に基づいています。すべてのものは、まず頭のなかで創造され、次に実際に形あるものとして想像されます。

旅行に出るときは、まず行き先を決めてから、最適なルートを決めるでしょう。例えば、東京から大阪に旅行に行こうとしてから、駅探とかで最適な電車のルートを選択することは自然です。でも大阪という目的地を知らないまま、とりあえず「駅探」にいっても何もすることがないですよね。なんで「駅探」のサイトを開いたのだろう、自分って大丈夫か、と自分にツッコミをいれたくなってしまいます。

スピーチをする時も、まずはじめに原稿を作ります。私は以前、飲み会で急に何かしゃべれと無茶ぶりされ、30秒固まった後、ぐだぐだなスピーチを展開したことがあります。不条理な世の中です。まずはじめに原稿や話したいことが頭にないと、しゃべれないのは当たり前です。

スピーチの例の中で、原稿というのは、頭のなかで行う、第一の創造です。実際にスピーチを行うのは、第二の創造です。つまり、頭と行動で、スピーチを二度、作っているんですね。スピーチ以外でもそうで、「すべてのものは、二度作られる」のですね。

この原則を理解し、頭のなかでまず終わり(あるべき姿、目的)を思い描くことで、日々の行動もその目的にそったものになっていくのですね。

仏教で教えられる無常観

始めに終わりをイメージするというこの第二の習慣ですが、仏教では無常観として2600年前に既に教えられています。

「無常を観ずるは菩提心の一(はじめ)なり」と言われます。すべてのものは無常。つまり常がない。ずっと同じ状態は続きません。綺麗に咲いた桜の花がいつか必ず散ってしまうように、大事に持っているペンもいつかは壊れてしまいます。そしてそれは自分や人の肉体においても同じです。生きるという常は無いのです。人は必ず死んでしまう。それをありのままに見つめることを無常観と教えられています。

その無常を観つめることが、幸せになる第一歩であると教えられているのです。

そして同じことを仏教を学んでいた、あのスティーブ・ジョブズも無常観が語ったことは以前の記事で紹介されています。読まれてない人は、こちらもぜひお読みください。

最初に紹介した「Begin with the End in Mind.」の”End”には終わりという意味以外にも「目的」という意味もあります。目指すべき方角であり、到達地点です。

必ず死ななければならない人間が生きなければならないのはなぜなのか。人生の終わりを見つめることで見えてくる、生きる目的があります。仏教を通じて学んでいっていただければと思います。