死ぬことが怖いという記事がインターネット上で話題になっています。匿名ブログに書かれた赤裸々な告白に色んな声が集まっています。
この匿名ブログの投稿主は、「人間はいつか必ず死ぬ」ということを理解することと、受け入れることは全く違うと書いています。物にはすべて終わりがあるように、人も死という終わりがあります。それは誰しもが理解はしていることでしょう。しかし受け入れることはできるのか、という問いに、「出来ない」「怖い」と率直に語っています。
このまっすぐなつぶやきに、感じ入るものがあったのでしょう。多くの声が寄せられました。私もその一人です。
この怖いという感情は否定されるものではありません。自分はおかしいと感じていたとしたら、それは決しておかしくないということを強く主張したいと思います。
死を恐れて生きてる僕ら
私たち人間は死を極端に恐れて生きています。
子どものときに「4」とか「42」の数値に対して、死と連想させて、脅かしたりしたものでした。子どもだけではありません。病院で4階がなかったり、420号室がなかったり、大人の世界でも、その番号を忌み嫌っています。死が怖いからです。
そんな子供だましの数字ですら怖がる私たちは、あらゆる手段を講じて、死を回避しようとしています。
人類の進歩発展というのは、言ってしまえば、死への逃避といって過言ではありません。より長く人が生きられるか、そのために医療はもちろん、科学も政治も経済も進化発展してきました。お金を稼ぐことや国の繁栄といった名目はありますが、その根元は詰まるところ、死を回避し、少しでも長く自分が生きることにあります。平均寿命を長くすることは、死へ距離を置こうとすることです。
ニュースを聞いてみると、医療問題や年金問題、環境問題、殺人事件や選挙など様々な事象が取り上げられています。これらもすべて死の恐怖から生まれている問題です。寿命をのばすために医療は必要だし、老後を生き抜くために年金は大事。環境が大事なのは死を避けるからです。殺人事件は言うまでもありません。
世の中の娯楽も、すべて死という最大恐怖からの現実逃避といって差し支えありません。稼いでる金も、愛した人もすべて、死に別れしなければならない、未来を直視することができないからです。
これを否定できない事実でしょう。
「恐れる」と「強がる」の違い
しかしこう言っても、紹介した記事への反応にあるように「自分は死は怖くない」という人が多くいます。ネット上だけでなく、実際そう考えている人は多いでしょう。そしてこういう人は、怖がる人を下に見て「死が怖いだなんて、子どもの時に悩んだ話。大人はそんなこと問題にしてるのがおかしい」という考えをもっています。多数派ゆえに、これが普通であり、そうじゃない人がおかしいという風潮になりがちです。
しかし、その考えは大人なようで、稚拙です。理にかなっているようで、かなっていません。単なる強がりとすら言えます。
この「死が怖くない」というのは前提として「死んだ後はない」「死後は何もなくなる」ということに立っています。死はつらくとも、何もなければ悲しみも感じることはないという論理です。これだけ聞くと合理的です。こういった考えを唯物論主義といいます。要は肉体がすべて、脳が全て(唯脳論ともいいますが)という考えです。
しかし、「死んだ後何もなくなる」というのは果たして断言できるでしょうか。これは現代の科学をしても、実証が不可能です。むしろ死後の世界の存在の可能性をほのめかす結果が多く出て、実際に著名な科学者も唯物論的な死生観に懐疑的になっています。
まず前提を疑う、科学的な考え方からいっても、死が怖くないというのは、論理は強固ではありません。単なる強がりでは、まかり通れないのが死という問題です。
仏教で語られる死の恐怖
仏教では、死は大変な恐れであると、色んな話から言われています。たとえば以下の経典の言葉があります。
大命、将に終わらんとして悔瞿交至る(大無量寿経)
(意訳)人間、臨終の時には、後悔と恐怖が代わり代わり起こる
後悔というのは過去への悔みです。死という大きな問題を軽んじて、享楽にふけっていたことへの後悔。
そして恐怖というのは、死後どうなるか分からない不安であり、恐怖です。
どんな人間にも終わりがくるということは、この後悔と恐怖が必ず起きるということです。この死という未来が分かれば、現在が怖くなるというのは自然なことです。そういう点で、恐怖を感じるというのは弱さというより、聡明さといえます。だからこそ、おかしいとは思っていただきたくないです。
この恐怖に向き合うことが人生です。深く難しい問題だからこそ、恐怖と向き合う必要があります。怖いと感じる人は、恐怖に向き合っている強い人です。
そういうことからも死という無常の問題に向き合った仏教をぜひ学んでいただければと思います。