衛宮 切嗣の人生から学ぶ「命の価値」|Fate/Zeroから学ぶ仏教

はじめまして!獄上(ごくじょう)と申します。就職して3年のまだまだ未熟なOLです。

コミックマーケットやコミックシティに通うこと12年、ゲーセン通いも6年以上という、自他共に認めるオタク・・・。

ですが!実は仏教に関心が有り、たまーに真面目なことも書いています!

仏教って何?という方々には、こんなオタクな私が自ら、進んで学んできた、大好きな仏教の深さをお伝えしたい!

Fate/Zeroをまだ見たことのない人には、大好きな作品のストーリー性の深さもお伝えさせて頂きたい。こういう思いから、この場を頂きました。

このブログで貴方と出会えたのも、きっと何かのご縁。良ければ最後まで読んでやって下さいませ。

さて今回は『Fate/Zero』の主人公である衛宮 切嗣の人生から、「命の価値」について、考えてみたいと思います。

※今回ここで書かせていただくのは、『Fate zero』の物語中盤以降の内容なので、これから見ようと思っているので内容を知りたくない!という方はお気をつけ下さい。

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『Fate/Zero』をおさらい!※ファンは飛ばしてもいいかも?

皆さんは『Fate/Zero』という小説(もしくはアニメ)をご存知でしょうか?

『Fate/Zero』が属するFateシリーズは、『Fate/Stay Night』が2004年に発売、成人向けゲームにも関わらず広く人気を博し、一大ブームとなりました。現在もスマホゲーム『Fate Grand order』が人気です。
繰り返しアニメ化されており、今年は『Fate/stay night [Unlimited Blade Works] 』も好評のうちに放送終了。
今後、ファン待望の『Fate/stay night Heaven’s Feel』の映画化も決まっており、いわゆるFateブームから数年以上たっても根強い人気です。

そんな中、今年は10月から『Fate/Zero』のアニメが再放送されています。

さて、『Fate zero』は、そのFateシリーズのスピンアウト作品の伝奇小説です。

作者は『魔法少女まどか☆マギカ』などのヒット作品で世界的にも有名な、虚淵玄(うろぶち げん)氏。

2006年より、同人流通で販売開始、売り切れが相次ぎました。そしてドラマCD化、マンガ化、商業流通での販売へと展開。
そして2011年~2012年、ファン待望のテレビアニメ化。Blu-rayBOXは、初週4.3万枚を売り上げ。
2012年3月19日付オリコン週間BDランキング総合首位獲得、初週売上歴代最高となり、Discランキング総合Blu-ray Disc部門にて作品別売上金額1位となりました。

さて、『Fate zero』に出てくる人物は『たかが小説やアニメのキャラクター』と括るには勿体ないほど、私たち人間の生の実態を生々しく表現してくれます。

台詞一つを取っても重みがあり、(他のFateシリーズもですが)『名言』がネット上でまとめられているほどですね。
それほど、彼らの生きざまは、私たちが人生を見つめ、生き方を考えさせてくれるきっかけをくれているのではないでしょうか。

そこで今回は、この『Fate zero』で活躍する登場人物について、人間のありのままの姿を説いた、仏教という哲学の視点から考察。
そこから、私たちが幸せな人生を送るためのヒントを、皆様と共に学びたいと思います!

―――手に入れた人ただ一人が、何でも願いを叶えることのできる万能の器、『聖杯』。

この聖杯を巡って、七人の魔術師が、それぞれの悲願を胸に戦う、『聖杯戦争』。これが、『Fate zero』で描かれる世界です。

七人のうち、生き残った一人しか願いは叶えられません。叶えたい願いのため、自分以外の六人を殺さなければいけない…
文字通り、命懸けの戦いが繰り広げられ、それぞれの魔術師の理想や思想、苦悩が描かれる群像劇となっています。

魔術師たちは、歴史上や神話で活躍した英雄たちの魂を魔術で現代に召喚し、英雄と共に戦いに身を投じます。
魔術師や、魔術によって現代によみがえった英雄が華麗な戦闘を繰り広げ、一見、現実から遠くかけ離れた世界の話に見えます。
が、話が進むにつれ、人間の本性、人間の生の実態が非常に生々しく描かれていく展開に…
人間の心を掘り下げていく展開は、多くのアニメファンを魅了し、海外のアニメファンからの評価も非常に高かったようです。

目が死んだ中年が主人公!?衞宮切嗣について

個性的な登場人物が数多く登場し、ファンを魅了した作品ですが、まず今回は主人公の過去から、人間の本質について考えてみたいと思います。

『魔術師殺し』と呼ばれる暗殺者――衞宮切嗣(えみやきりつぐ)。

草臥れた黒いコートに手入れされていない無精髭。血と硝煙の匂いをまとい、口には煙草。そして、目が死んでおります。

でも顔はイケメン!というのは私の個人的感想ですので置いといて・・・
アニメから見た人は、この虚ろな目のおっさんが主人公?!( ; ゜Д゜)と思った方々もいらっしゃったかもしれませんね。

今回は、何故切嗣の目が死んでいるのか…じゃなかった、何故切嗣が聖杯戦争に参加するに至ったのか、その略歴から、彼の生き様について仏教の視点から見つめてみたいと思います。

切嗣は幼い頃、魔術の研究する父・衛宮矩賢と、各地を転々と潜伏しながらの生活をしていました。
幼い頃の切嗣は明るく人気者の少年。アリマゴ島という南国の島で、仲間たちや、幼馴染みにして初恋の少女、シャーレイと過ごす、幸せな毎日。

しかし、幸せはいとも簡単に崩れ去る・・・

ある日、父の研究サンプルが漏れ出す事故が発生。
実は、彼の父は禁じられた研究を、各地を転々と逃げながら進めていたのです。
目的は、久遠の時を必要とする魔術の研究のため、不老不死の肉体を手に入れること。
しかし、漏れだした研究サンプルは研究の失敗品で、サンプルに罹患した人間は、理性を無くし、吸血衝動に狂い他の人間を殺す屍食鬼になってしまうという恐ろしい代物だったのです。

羅患した幼なじみ、シャーレイは、苦しみから切嗣に、ナイフを投げ、自分が正気を失い、人間でなくなる前に殺してくれ、と頼みますが、切嗣は恐怖からその場を逃げ出し、大人に助けを求めます。

しかし、時既に遅し。

切嗣が大切な人を殺せなかった結果、島民は屍食鬼と化し、討伐や事件の証拠隠滅のための口封じに来た者たちにより皆殺しにされます。

切嗣が愛する一人を殺せなかったために、島は阿鼻叫喚の地獄絵図に・・・

切嗣が自宅に帰ると父が、島から逃げる荷仕度をしていました。
父はこの惨劇を『研究失敗の一例』としか考えていない。
この程度の犠牲には、めげることもなく、何度でも実験を繰り返し、研究を続けていくつもりだったのです。

父は、この島の惨劇を再発させる危険を一切顧みることなく、また違う場所で、この研究を再開させる…

そう察した彼は、愛する父親を殺します。

実は切嗣には、心と体を切り離して、殺人機械のように、どんな相手でも殺せるという、悲しい『稀有の才能』がありました。
愛する父を殺した切嗣は、父を狙って来たナタリアというフリーランスの暗殺者と共に島を脱出。
孤児となった彼はナタリアと各地を転々とする内に、自らの意思で彼女の仕事を手伝い、魔術師殺しに従事します。
外界を体験した切嗣は、アリマゴ島の惨劇は珍しくない出来事であり、世界は惨劇や戦争であふれていることを思い知りました。

ナタリアと世界各地の惨劇や紛争の地を転々とする切嗣。

血と硝煙にまみれた歳月は、飛ぶように過ぎ、いつしか彼の瞳からは輝きが失われます。

“皆救えるなんて思ってないさ、それでも僕は、一人でも多く救いたい…“

ある日、ナタリアが乗った旅客機で、暗殺したターゲットの体内に隠されていた恐ろしい生物兵器が流出。

ナタリア以外の客やパイロットは全員は、生物兵器に感染、人間を喰らう化け物と化します。

空港に旅客機が着けば中にいる感染して狂った乗客たちが街を襲い、大勢の人が亡くなる―――
母のような存在だったナタリア一人と、大勢の人を天秤にかけることになった切嗣。
切嗣が下した判断は―――

「見てくれていたかい?シャーレイ。
今度もまた殺したよ。

キミのときみたいなヘマはしなかった。
僕は、大勢の人を救ったよ…」

海の上の飛行機ごとミサイルでナタリアを撃ち落とした切嗣。
彼の行動は、屍食鬼から空港の人々を守ったという点では、『正義の味方』ともいえました。
しかし、そんな英雄本人が明けゆく空に向けて一人吼えた言葉は

「ふざけるな………ふざけるなッ!馬鹿野郎ーーーッ!!!」

自分の大切な家族を殺して、多くの人を救う…

悲劇から闘争から多くの人間を救う。
そのために私情を排し、多くの命を救うためなら、自分の近しい人や愛する人間も利用し切り捨て巻き添えにする。

その信条に生き、心と体を切り離し人を殺せる才能により、冷酷な機械として生きる切嗣。

が、その本当の心は、家族を愛しいと思う普通の人間と変わりませんでした。

悲劇から、闘争から、多くの人間を救う。
そのために必要な犠牲として、少数の人間の命を消し去る…

その理想を追えば追うほど、大切な人が周囲から消えていく。
いくら大勢の人間を救うために、惨劇を生む魔術師たちを殺しても、この世界から闘争はなくならない。

日に日に心がボロボロになっていく切嗣が最後に見つけた希望が、どんな願いも叶える万能の願望器といわれる、『聖杯』でした。

聖杯を手に入れて、人類という種全体が抱える「闘争」全てを終わらせ、世界中の人間を救う…
そのためなら、どんな残虐なことだってやってみせる。

そう決心し、聖杯を奪い合う他の魔術師たちを確実に葬ることだけに特化した切嗣。

その戦い方はあまりに冷酷でした。

貴様は外道だ!と、共に戦う仲間であるはずのサーヴァントにまで非難される切嗣。
そのとき、切嗣が返した答えは・・・

「今の世界、今の人間の在りようでは、どう巡ったところで戦いは避けられない。
最後には必要悪としての殺し合いが要求される。
だったら最大の効率と最小の浪費で、最短のうちに処理をつけるのが最善の方法だ。
それを卑劣と蔑むなら、悪辣と詰るなら、ああ大いに結構だとも。

正義で世界は救えない。そんなものに僕はまったく興味はない。

世界の改変、ヒトの魂の変革を、奇跡を以って成し遂げる。

そのために、たとえこの世全ての悪を担うことになろうとも――構わないさ。
それで世界が救えるなら、僕は喜んで引き受ける」

この戦いの後、切嗣は34歳という若さでこの世を去ります。

彼が短く過酷な人生で、迷い苦しみ続けたことは、アニメのキャラクターの生きざまとして捉えるだけでは勿体ない。
彼の人生は、現実の社会に生きる私たちにも、大切な問いかけを投げかけているように感じます。

何が本当の正義なのか?切嗣の苦悩の根源とは

多くの命を救うために、少数の人間を殺す。

現実世界にもし切嗣がいたなら、過激派テロ組織が激戦を繰り広げる地域に飛び込み、テロ組織の主導者を殺しに行っていたでしょう。

映画やドラマにはこういう悪を倒す『正義の味方』は出てきますし、その活躍は称賛されます。

しかし、こういう正義の味方に、本当の意味で人間を救うことはできないという現実が『Fate/Zero』では、えぐり出されていきます。

切嗣は、次第に正義の在処が分からなくなっていき、苦しみ続け、最終的に奇跡の願望器に頼らざるを得なくなります。

その理由には一点、どうしても彼に分からないことがあったのではないでしょうか。

もちろん、多くの人を救うために、私情を廃し、自分の大切な人を失い続けたことは、心の大きな傷となったでしょう。
ただ、仏教の視点からみていくと、それ以上に、大きな問題が根っこにあったことが見えてきます。

そして、その問題は、切嗣だけでなく、現実の世界に生きる私たちも分からず、苦しんでいることでもあります。

人を救うために自分の全てを犠牲にした、切嗣にも分からなかったこと……

救われた命で、その人が幸せに生きているのか?

多くの命、ひいては自分の大切な人の命を犠牲にして、助けることができた「尊い」命。
でも、切嗣によって命を救われた大勢の人は、その後の人生、心から幸せを感じて生きることができるのか?
切嗣にはそれが分からなかったのではないでしょうか。

いや、切嗣だけではないのです。

私たちが生きる現実の世界でも、切嗣とは手段は全く違いますが、医学や、科学、レスキュー技術といった人の営みは、ヒトの命をできるだけ長く伸ばすために、有事の時に、できるだけすべての被災者の命を救えるように……存在します。

この目的を果たさん、と、現代社会は発展してきました。

先日も、アフリカの多くの人々を病魔から救った功績が讃えられ、日本の大村智さんがノーベル医学・生理学賞を受賞しましたね。

科学は多くの人間の命を救うために発展してきたといえるでしょう。
昔なら20代になるまでに病で亡くなる子供も多かったですが、このブログを読まれている方の多くは無事成人になった方だと思います。

ただ、私たちに、「大人になるまで無事生きられて、毎日生きるの超幸せ~~!(*’ω’*)うきうき」

という実感はあるのでしょうか?

日本では自殺者は分かっているだけでも三万人を超え、自殺を日々考えている人はもっともっとたくさんいると言われています。

今年の夏、学校の夏休みが終わる時期には、NHKでニュースの時間に

『自殺する前に、周りの人に助けを求めてください』

と学生に向けて、有識者やアナウンサーがメッセージを送る特集が組まれていました。

しかし、その特集もむなしく、まだ幼い小学生や中学生でも、自殺する子がいることを報じるニュースは、一向に無くなりません。
つい先日も、通勤中、人身事故で電車が止まりましたが、人身事故は、自殺のケースが多いそうです。
人身事故と聞いても、誰かが自ら命を絶ったという事実に一々ショックを受けないほどに、私たちは自殺する人がたくさんいるという現実に麻痺しています。
東日本大震災で津波の被害から奇跡的に生き延びた方が、数年後自殺されるという悲劇も後を絶ちません。

さて、手段の是非を問うことを別の問題として置いておくなら、切嗣の理想、人類救済は、世界中の人間への貢献といえます。
しかし、貢献した相手は心から幸せを感じて生きることができているのか・・・?

もし相手が日々の人生を幸せに生きることができなければ、一人でも多くの人間を救うために、彼が命がけでやってきたことの意味もなくなってしまいます。

現実社会を見てみても、命の価値を感じられず悩み苦しむ人間だらけ。
まさに古今東西の人類にとって不変の難題と言えるかもしれません。

人類にとっての難題に対して、仏教は

人身受けがたし 今すでに受く(華厳経)

という言葉を2600年前に釈迦は残しています。

意味は、生まれ難い人間に生まれて良かった。

人間の命が本当に尊い、かけがえのないものと知ることができ、心の奥底から自身も生きていることに喜びを感じられたなら、私たち現代の『命を救う術』も本当の意味で生かされます。

Fate/Zeroの切嗣は、多くの命を救うために、少数の人間を殺すという手段を取りながら、苦しみ続けます。

それは救った命が『生きてきて良かった!』と思える、幸せな人生を必ず歩んでくれるという確信が持てなかったのではないでしょうか。

彼自身が生まれてきて良かった!と思っていたなら、もっと違う方法で、人類を救っていたかもしれないですね。

同じような疑問は、現代にも抱く人は多いようで、マイケル・サンデル教室のハーバード白熱教室でも特別講義として『ビンラディン殺害に正義はあるか』という講義があり、ハーバード大生や東大生が激しい意見交換を交わしています。

そんな難題に対し、仏教では2600年前から、生命の尊厳や意味がはっきりと教えられています。

人間は生きている間に、必ず成さねばならぬ大事なことがある。

それを達成したとき、人身受けがたし、今すでに受く・・・つまり『人間に生まれてきて良かった!』と心の底から思うことができる。

だから、それを成し遂げるまでは、苦しくても、決して死んではいけないんだよ。

こういう大事なことが、仏教には二千年以上前から教えられているのだそうです。

切嗣の行く末やいかに

さて、そんな切嗣が参加し、見届けた聖杯戦争。あまりにも短く、苦悩に満ちた人生で、彼は何を見たのでしょうか…

彼の行く末も、私たち人間の生というものに、深い問いかけを投げかけてくれるものです。

ならば、仏教の視点からも“問わねばなるまい・・・!”

ということでまた今後、機会がありましたら。

今回は読んで下さって、ありがとうございました!(*^▽^*)

続編出しました!

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