無宗教も盲信?周りに流されて形成される価値観

「仏教」と聞くと、「なんだ宗教か」と偏見をもったり、斜めに見てしまう人も中にあると思います。かくいう私自身もそうでした。
では、なぜ仏教ないし宗教に対して、構えた態度を取ってしまうのでしょうか。
「よく分からないものを信じるのが怖い」とか「盲信が恐ろしい」とか、色々あると思いますが、一番の原因は日本では宗教を信じている人が(表面上は)少ないからというのが実際ではないかと思います。

周囲の影響を受け続ける私たち

人間、周りの人が信じているものは自然と信じてしまうものです。家族がよく本を読む家庭に育てば自然と本好きになるでしょうし、友だちがヤンキーばかりならば「悪びれるのがカッコいい」と思うかもしれません。

ヨーロッパの多くの国では、キリスト教信者の割合が99%を超えますが、そんな文化に育ったら多くの人はやはりキリスト教の信者になるのではないでしょうか。イスラム圏に育ちながら、あえて無宗教を貫ける人はまれに違いありません。
その点、日本は一応は「仏教国」というものの、特に参加が必須な仏教的な行事が頻繁にあるわけでもありませんので、自然と”無宗教”となるのもうなづけます。
そのように私たちは、周囲の人が信じているものを無意識に信じています。無宗教の人は「無宗教がよい」と信じているのです。
Just a face in the crowd
Just a face in the crowd / Scott Cresswell

周りに合わせるメリット

そのように「周囲の人が信じていることを信じる」という戦略には、いくつかのメリットがあります。

一番のメリットは仲間はずれにされる確率が少ないことでしょう。特に周囲の人が強烈に何かを信じている場合、あえてそれを信じないという選択は、時として命に関わることさえあります。

戦前の日本でも同じようなことがありました。「天皇は現世にあらわれた神」「戦争こそが善」と国民の大多数が信じていた中で、それに異論を唱えれば「非国民」と罵られ、場合によっては思想犯として投獄、処刑される可能性もあったのです。そんな中でも、自らの信じる道を貫く、ということは非常に勇気がいることであり、誰にでもできることではありません。

二つ目のメリットとして検証するためのエネルギーを節約できることがあります。
私たちは、日々、膨大な量の情報を受け取っています。それらのものをいちいち疑って、本当かどうか検証していたら、時間がどれだけあっても足りないでしょう。なので、「納豆が体によい!」と専門家らしき人がそれっぽいデータを持ってテレビで言うと、スーパーから納豆が売り切れる、などといった喜劇がたびたび起きるわけです。

このように私たちは、楽だし、仲間はずれになることがないから、といった理由で、周囲の人が信じていることを無意識に信じる傾向にあります。
そのため、周りに宗教を信じている人が少ない環境で育った人ほど「無宗教の方がよい」と無意識に信じているために、それが「宗教偏見」につながるのではないかと考えられます。

周りに合わせること=幸せではない

ところで「楽だし、仲間はずれにならない」ことと、その人の幸せとは必ずしも一致しません。おかしなものを信じたために、自分も周囲も不幸になる例は、日々のニュースだけ見てでも枚挙にいとまがありません。
周りの人が皆、信じていることであっても、間違っていることを信じ、それに沿って行動したならば、その結果は自分が受けねばならないのです。
戦争の時には、国のために(あるいは神のために)相手を殺すのが善だ、と周囲が言いますので、それを信じ行動します。ですが、どんなに言い繕ってもそれは紛れもなく殺人であり、その罪を背負っていくのは自分です。

問題は、皆が信じているかどうかよりも、

  • それが本当に正しいのかどうか
  • 自分は(そして他人は)それによって本当に幸せになれるのか
  • でしょう。

    では、どうしたら正しいかどうかが分かるのか、
    それには聞かないことには分かりません。

    仏教は「合点(納得)ゆかずば、合点(納得)いくまで聞きなさい。聞けば合点(納得)のいく教え」と言われます。
    仏教が教えていることは本当かどうか、私を幸せにする教えかどうか、よく聞いていただければと思います。

    ぜひご意見をお待ちしています。