今回もFate/Zeroから仏教について解説する記事です。前回は衛宮 切嗣の人生から考える『命の価値』について書かせていただきました。お読み下さった方々、ありがとうございました!
※前回記事はこちら
衛宮 切嗣の人生から考える『命の価値』|Fate/Zeroから学ぶ仏教[1] | 20代からの仏教アカデミー
たくさんの方々がご覧になる場で仏教に関する記事を書かせて頂いたのは初めてでして、分かりにくいところも有ったかもしれませんが、たくさんの方々に読んで頂け、感激です(*ノ▽ノ)大変励みになりましたので、続編を書かせて頂きました!
引き続き、大好きな作品Fate/Zeroから、仏教の深さをお伝えできたら幸いです。
※前回同様、「これからFate/Zeroを見ようと思っているので、ストーリーの内容を知りたくない!」という方はお気をつけ下さい。
『言峰綺礼』についておさらい
『Fate/Grand Order』が現在好評稼働中のFateシリーズ。そのスピンオフ作品であり、根強い人気から現在再放送中でもある『Fate/Zero』。『Fate/Zero』に登場する人物の思惑、葛藤そして苦悩から私たちが学べることを仏教の視点から考えていきます。
今回は、言峰 綺礼(ことみね きれい)のFate/Zeroでの生きざまを仏教の視点から見つめ、そこから私たちが学べることを何回かに分けてお伝えしたいと思います。
言峰 綺礼はFateシリーズに何回も登場していますが、どちらかというと、黒幕やラスボスとして登場し、主人公の敵になることが多い人物です。
しかし黒幕とは思えないほどFateファンの間では人気なキャラクターで、激辛麻婆豆腐が好物なので『麻婆』という愛称でファンには愛されていますね。
なんと2014年に行われたufotable cafeの「Fate/stay night」人気投票では、中間発表でまさかの1位、最終発表でも2位になりネット上で話題になっていました。6位だった主人公の士郎が泣きそう(笑)
TYPE-MOON10周年記念オールキャラクター人気投票というTYPE-MOON作品全体の人気投票でもFate /zeroに出てくる青年時代の姿で21位、10年後のFate/stay nightの姿で27位に入っていたので、女性ヒロインが活躍する作品の多いTYPE-MOONシリーズ全体においても、一定の人気があるようです。
さてFate/zeroに登場する青年時代の綺礼は、いわゆる『外道麻婆』と言われるようになる前の姿。
若かりし日の綺礼は、迷いを抱えながら求道する若き神父ですが、彼の迷いは、私たち現実に生きる人間も迷っている深い心の闇でもあります。
その迷い続ける姿は多くのファンを惹き付け、Fate/Zeroが人気を博す一因ともなりました。
綺礼の人気は、もしかしたら、彼の悩みに共感できる人が、多いからかもしれませんね。
今回も仏教の視点から、考えてみたいと思います。
文武両道のスーパーハイスペック神父、言峰 綺礼
言峰 綺礼は前回お話しした、主人公の衛宮 切嗣に立ちはだかる最大の強敵となる人物ですが、その素性は、誰にも打ち明けられない心の闇に苦しむ青年です。
言峰 璃正(ことみね りせい)神父の息子である綺礼は、父親の聖地巡礼に幼少時から同伴、神学校を2年飛び級の上、主席で卒業という経歴を持つスーパーエリートな神父。
しかし出世街道まっしぐらだったはずの彼は、何故か所属を自ら転々とし、『代行者』にまで任命されます。
『代行者』とは、神の代行者として、教義の埒外にある奇跡や神秘を、異端として葬り去る戦闘員。
Fateは魔術師が活躍する物語ですが、代行者というのはその魔術師を、神を冒涜する者として取り締まる立場です。簡単に言うと『神に代わってお仕置きよ☆』を実行する訳ですが、その実態は文字通り命をかけた過酷な任務。
失敗は死を意味する任務を遂行する第一級の殺戮者、人間兵器としての修練を潜り抜けてきた、選ばれた者しかなれないのが『代行者』なのです。
まだ十代のうちに『代行者』に任命された綺礼の経歴を見て、主人公の切嗣も「生半可な根性でできることじゃない」と述べています。
綺礼は「黒鍵(こっけん)」と呼ばれる刀のような武器を使って戦いますが、刀を右手に三本、左手に三本、合計六本持って戦う姿は、某戦国アクションゲームでレッツパーリィしている独眼竜もびっくりしそうですね。
また拳銃やナイフを持つ相手と拳で互角に戦い、木を生身でへし折り、人間の心臓を一瞬で潰すほどの拳法の達人でもあります。
高学歴、高身長、運動神経も超人レベル、オマケに渋い系イケメンというハイスペックな綺礼。名前まで1967年生まれとは思えないカッコいいキラキラネーム。
が、主人公の切嗣と同じく、目がいつも死んでいます・・・。
さてそんな綺礼、ある日突然、右手に「令呪(れいじゅ)」というタトゥーのようなものが現れます。
「令呪」とはサーヴァントと呼ばれる英雄の魂を現代に召喚し、使い魔として使役するために必要な魔力のカタマリみたいなもの。令呪が右手に現れた人間は『マスター』と呼ばれる、聖杯戦争の参加者として選ばれたということを意味します。
実は、聖杯戦争が始まる3年も前に、綺礼はマスターとして選ばれていました。
聖杯戦争は魔術師の決闘なので、マスターに選ばれるのは基本的に魔術師。そんな中、綺礼は魔術師でもないのに、3年も前にマスターに選ばれた。これは極めて異例なことでした。
そして、綺礼の父親の璃正神父は、なんと聖杯戦争の監督役でした。しかも監督役なのに、古くから縁故のある魔術師の名家、遠坂家と裏で繋がっていて、影で支援していたのです。
スポーツでいうと、試合の審判と選手が癒着しているような話ですが、璃正は
「ヨコシマな欲望を叶えたい人間に『どんな願いも叶える』聖杯を勝ち取られたら、神への反逆となる願望を叶えられてしまうかもしれない!それは防がないと!」
という教会の人間ならではの思いがありました。
その点遠坂家の当主、遠坂時臣(とおさか ときおみ)は聖杯で叶えたい願望を明確に決めており、また、その内容も、「世界の根源に至りたい」というもの。
宇宙の起源にたどり着きたいというような魔術師らしい崇高な願望は、教会にとっては無害であり、璃正が容認できる願望でした。
そんな経緯から遠坂時臣を支援していた父親の意向で、綺礼は時臣に協力する形で聖杯戦争に参加することに。
綺礼はある日突然、住んでいたイタリアから日本へ飛び、遠坂時臣の弟子となり、魔術を学ぶことを命じられます。
今まで神への冒涜となる魔術を使う魔術師を暗殺してきた綺礼ですが、聖杯戦争に参加するために、一人前の魔術師となり、裏で時臣と協力しながら、時臣が聖杯を勝ち取る手伝いをしろと命じられます。
協力するといえば簡単に聞こえますが、聖杯戦争は命懸けの戦い。
初めて会った見ず知らずの人間、時臣と協力しながら命を懸けて聖杯を勝ち取れ、なんて、なかなか無茶な話です。勝ち取った聖杯は、自分の願いを叶える訳でもなく、時臣の願いを叶えるのですから。
しかし綺礼はこの任務を引き受けます。
綺礼がこの話を引き受け、立ち去ったあと、時臣は綺礼の父、璃正とこんなやり取りをしています。
「頼り甲斐がいのあるご子息ですな。言峰さん」
「『代行者』としての力量は折り紙付きです。同僚たちの中でも、アレほど苛烈な姿勢で修業に臨む者はおりますまい。見ているこちらが空恐ろしくなる程です」
「ほう……信仰の護り手として、模範的な態度ではありませんか」
「いやはや、お恥ずかしながら、この老いぼれにはあの綺礼だけが自慢でしてな。五〇を過ぎても子を授からず、跡継ぎは諦めておったのですが……今となっては、あんなにも良くできた息子を授かったことが畏れ多いぐらいです」
「しかし、思いのほか簡単に承諾してくれましたな。彼は」
「教会の意向とあれば、息子は火の中にでも飛び込みます。アレが信仰に懸ける意気込みは激しすぎるほどですからな」
綺礼の父親は、息子が時臣と協力する目的で聖杯戦争へ参加しろという任務を快諾したのは、強い信仰心の表れと誇りに思っていました。聖職者の父親にこれだけ褒めちぎられるなんて、名前通り心が超キレイと思われていたのでしょうか。
私はFate/Zeroの綺礼より年上ですが、ゲームセンターに入り浸って親に叱られたことはあっても、親に人前で褒めちぎられたことなんて今までありません。うらやましい限りです(笑)
また時臣が「正直なところ、拍子抜けしたほどです。彼からしてみれば、何の関係もない闘争に巻き込まれたも同然のことだったでしょうに」と璃正に思ったままを伝えると、璃正から驚きの事実が。
「いや……むしろアレにとっては、それが救いだったのかもしれません。
・・・つい先日、アレは妻を亡くしましてな。まだ二年しか連れ添っていなかった新妻です。
……イタリアには思い出が多すぎる。久しい祖国の地で、目先を変えて新たな任務に取り組むことが、今の綺礼にとっては傷を癒す近道なのかもしれません。
時臣くん、どうか息子を役立ててください。アレは信心を確かめるために試練を求めているような男です。苦難の度が増すほどに、アレは真価を発揮することでしょう」
父親の璃正は、綺礼が厳しい鍛練を毎日積み代行者として活躍していたのも、聖杯戦争という死闘に、父親の友人を助けるために参加することをあっさり承諾したのも、模範的な聖職者だからだと思い、誇りに思っていました。
しかし実は、綺礼の内心は父親からの評価や期待とは、あまりにもかけ離れたものでした・・・
実は、この任務を綺礼が引き受けた理由の奥底には、綺礼が物心ついたときから悩み、苦しんできた心の闇があったからでした。
確かに璃正の言うように、新妻の死も綺礼の心を暗くしたものでした。
しかしそれは、璃正が想像するような、『愛する女性を失った悲しみ』というよりは、彼が幼い頃からずっと抱えてきて、誰にも理解してもらえなかった、心の闇をより深くしたものだったのです。
周囲からいくら称賛されても晴れない、綺礼の心の闇
物心ついた時から、彼にはどんな理念も崇高と思えず、どんな探求にも快楽などなく、どんな娯楽も安息をもたらさなかった。
そんな人間が、そもそも目的意識などというものを持ち合わせているわけがない。
ただとにかく、どのような分野であろうとも、前向きな姿勢で成し遂げようと思えるだけの情熱を注げる対象が、綺礼には何ひとつ見当たらなかった。
それでも神はいるものと信じた。まだ自分が未熟であるが故に、真に崇高なるものが見えないだけだと。
いつの日か、より崇高なる真理に導かれるものと、より神聖なる福音に救われるものと信じて生きてきた。その希望に賭けて、縋った。
だが心の奥底では、綺礼とて、すでに理解してしまっていたのだ。もはや自分という人間は神の愛をもってしても救いきれぬと。
そんな自分に対する怒りと絶望が、彼を自虐へと駆り立てた。修身の苦行という名目を借りて、ただ徒に繰り返された自傷行為。
だがそうやって責め苛むほどに綺礼の肉体は鋼の如く鍛えられ、気がつけば他に追随する者もないまま、彼は『代行者』という聖堂教会のエリートにまで上りつめていた。誰もがそれを“栄光”と呼んだ。言峰綺礼の克己と献身を、聖職者の鑑として褒めそやした。父の璃正とて例外ではなかった。
綺礼が人間兵器と言われるほどの過酷な世界で修練を積んできた、真の理由は、何をやっても自分の生に目的や幸福が感じられなかったからだったのです。
厳しい鍛練を積み、選ばれた人間しかなれない代行者として、死線を何度も越える活躍をしながら、何に打ち込んでも、周囲にどれだけ賞賛されても、そして妻を得ても、自分の生に目的が見いだせない。
どんな娯楽も心の底から楽しむことができない。どこまでも空虚な人生。
こんな自分を救ってくれる存在などいるはずがない・・・と思いながらも、問い続けてきた心の闇を解決してくれる何かを求めずにおれなかった彼は、厳しい試練に挑んできましたが、得られたのは本人が望みもしない名誉と賞賛ばかり。
それが、綺礼という青年でした。
聖杯戦争に参加しようとする者は、前回お伝えした切嗣のように、何か命をかけてでも果たしたい悲願があります。
しかしこんな空虚な綺礼には、命をかけてでも叶えたい悲願はおろか、願望と言えるものは何一つ、無かったのです。
さらに悲しいことに、璃正は綺礼が物心ついた時からずっと抱えているこの悩みを全く気付いていませんでした。
綺礼を信仰に命を懸ける模範的な聖職者と疑わず誇りに思っている璃正に、綺礼は、この心の闇をどうしても打ち明けることができなかったようです。
そのため綺礼が内に抱えたこの深い迷いは、誰にも言えず、理解されたことがありませんでした。それは、ただひとり愛したはずの亡き妻にさえ、理解されなかったのです……
『自分』って何?綺礼が問い続けた難題
なぜ、何をしても心から喜べない空虚な人間になってしまったのでしょうか?
何に対しても目的意識が持てないことだと自覚はしている綺礼ですが、そこには、もっと深い深い問題があることが、仏教の視点から考えると、見えてきます。
そして彼の悩みは、現実の世界に生きる私たち人間もずっと問い続けてきた難題でもあるのです。
「私」って何??
これが綺礼の…いや古今東西の人類が問い続けてきた難題でした。
現代人も『本当の私を知りたい』『本当の自分になりたい』…いわゆる「自分探し」をする人は多く、自分を知るための心理学や精神世界の本やセミナーが溢れています。
また就職活動をされたことがある方は、就活セミナーで講師に口酸っぱく「自己分析をしましょう!」って言われた記憶があるのではないでしょうか?
綺礼も、本当の『私』が分からなくて苦しんでいました。
しかしこれは、何も学才に恵まれ、幼い頃から信仰の道に生きてきた綺礼だから悩んでいたことではありません。
「汝自身を知れ」と古代ギリシアからいわれてきたように、今も昔も、私たち人類が最もわからず悩んできたのが自分自身なのです。
人工衛星「はやぶさ」で、遠い宇宙の様子がわかっても、素粒子の世界が解明されても、三十億の遺伝子が解読されても、依然としてわからないのが『私』。
しかし『私』の本当の姿が分からなければ、その『私』が本当に幸せに生きる術もまた、分からないのではないでしょうか?
ギリシャ神話に出てくるスフィンクスは、「始めは四本足で歩き、中ごろは二足となり、終わりに三足となる動物は何か」と旅人に問いかけ、答えられない者を食い殺します。
このなぞなぞの答えは・・・『人間』です。人間に向かって、「あなたは何?」と問うて、答えられなければ殺すということはつまり、自分の姿が分からないままの人生は、生きる価値が無いような毎日になってしまうよ!とスフィンクスは忠告しているのかもしれません。
自分の姿が分からないことの不安を解消すべく、科学、医学、文学、哲学、そして宗教も、この問いに答えようとしてきたといえます。
しかしニーチェは「おのれ自身にもっとも遠い者は自分だ」と言っていますし、“知るとのみ 思いながらに 何よりも 知られぬものは おのれなりけり”という古歌もあるように、「自分とは何ぞや?」という問いほど、難しいものはないのかもしれません。
こんな話があります。
昔々の中国の蔡君謨(さいくんぼ)という宰相は、長い見事なアゴ髭で有名でした。
現代日本ではどちらかというと中性的な男性の方が人気な傾向があって、「Fate/stay night」に出てくる佐々木小次郎のような、顎がツルツルな優男の方が人気な感じがしますが、当時の中国では髭がびよ~んと長い渋い男性がモテた(?)ようです。蔡君謨さんは、髭がとにかく長いのが立派だと評判でした。お仕事も今でいう総理大臣ですから、すごく…モテそうです…。
彼は宰相ですから、上司は王様ですね。
ある日、その王様がふと、こんなことを言いました。
「お前は、本当に立派なヒゲを持っているが、そのヒゲを布団の中に入れて寝ているのか?それとも、外に出して休むのか?」
毎日布団で寝ているはずの、蔡君謨さん。なんと即答できません。王様に対していい加減なことも言えないですから、一晩時間をくださいと言って、さっそく帰宅して試してみました。
しかし、いざ布団で寝ようとすると・・・布団にヒゲを入れると息苦しいし、外に出してもなんか顎がスースーします。ヒゲの定位置は布団の中だったか、外だったか・・・。一晩中、長~い髭を布団へINと布団からOUTを繰り返し、気づいたら夜明けでしたが、結論は出なかったそうです。
結局どうしても分かりませんでした、と報告した寝不足の蔡君謨さんに王様は一言。
「お前は政治には誰よりも詳しいのに、自分のことは分からないものだな」
昔の人だけでなく、現代人の哲学者もこの問いに頭を悩ませています。
皆さんは鷲田清一さんという哲学者をご存知でしょうか?
鷲田清一さんの哲学書は大学入試の設問に何度も使われていまして、2011年センター試験の「現代文」の問題にも出題されているので、哲学はよく知らないけど名前は見たことがある!という方もあるかもしれませんね。
この鷲田清一さんの有名な著作「じぶん・この不思議な存在」という本の冒頭にこのような一節があります。
わたしってだれ?
じぶんってなに?だれもがそういう爆弾のような問いを抱えている。
爆弾のような、といったのは、この問いに囚われると、いままでせっかく積み上げ、塗り固めてきたことがみな、がらがら崩れだしそうな気がするからだ。
(中略)
だれもが、人生のなかで何度も何度もこの問いを口にする。あるいは、ひとりごちる。
あるいは、そのような問いの切迫を、それと意識することなく感じている。 そして、そのように問うことじたいが、どうやらこの問いのうちに潜んでいる不安をあおりたてることになっているらしいことも、うすうすは気がついている。
いつの日かさだかではないが、幼いときのある日に、他のだれでもないこのじぶんというものを感じ、意識しはじめた。そしていったんそういうじぶんというものを意識しだすと、そのように意識していないときでもじぶんはいる、ということがあたりまえのようになりだす。
たとえば眠っているあいだは、「じぶん」という意識はないのに、そして眠る前のじぶんと、めざめたあとのじぶんとが、同じじぶんであるという証拠がはっきりとあるわけでもないのに、眠りの前後でじぶんは同じこのじぶんであるという意識を捨てない。あるいは、眠っているあいだにじぶんでもどうしてそんな夢を見たのか、理由が思いつかないにもかかわらず、じぶんのなかにはなにか別の生きものがいるなどとは考えずに、じぶんのなかにその理由を求めはじめる。
でも、じぶんっていったいなんなんだろうと考えはじめると、<じぶん>というもののこういう見かけ上も堅固さも、とたんにぐらぐら揺らぎだす。<じぶん>という存在には、どこをとっても不確かな根拠しかないという事実が、つぎつぎとむきだしになってくる。
この本は1996年発刊なのですが、20年近く経った今も版を重ね、国語の教科書にも載ったことがあるそうです。
「じぶんってなんだろう?」と思っている現代人はそれだけ多く、学校で習う文章に出てくるほど、私たちにとって大切なテーマなのでしょう。
本当の「じぶん」が何か分からないために、心から幸せだといえる人生を歩めていない人もまた、多いのではないでしょうか。
そして仏典にはこんなお話があります。お釈迦様が、一樹の陰に休んでおられたとき、近くの林で三十人あまりの貴公子が、夫人同伴で酒宴を楽しんでいました。
ところが独身男が連れてきた娼婦のような女が、みんなが疲れて眠っている間に貴重品を盗んで逃げてしまいました。
驚いた一行が懸命に探しまわっていると、お釈迦様の姿を見つけました。
あやしい女が通りかからなかったか尋ねると・・・
「事情はよくわかったが、その女を求めるのと、汝自身を求めるのと、いずれが大事であろうか」
こう反問されて、はっと我に返り、説法を聞き弟子になった、と記されています。
「じぶん」を知らないことは、大金を盗まれるより、心配すべき問題なのに、ついつい考えるのを先伸ばしにしているのが私たちなのかも…
本当の『私』を探し続けていた綺礼
綺礼は本当の『私』を探すため、新たに課された試練として聖杯戦争に参加することを承諾しますが、『私』探しの疑問は深まる一方でした。
今日の遠坂時臣との会見で、ついに満足な答えを得られなかった最大の疑問……その問いこそが、綺礼にとっては最も気懸かりだったのだが。
何故、“聖杯”なる奇跡の力は言峰綺礼を選んだのか?
こんなにも早々に令呪を授けられた綺礼には、きっと選ばれるだけの理由があった筈なのだ。
だが……考えれば考えるほどに、ただ矛盾ばかりが綺礼を悩ませる。
目的意識が持てない、理想も願望も持たない人間が『私』だと自負している綺礼は、そんな『私』がなぜ聖杯に選ばれたのか悩み続けながら、聖杯戦争に参加します。
しかし「どんな願望も叶える」万能の器である聖杯に選ばれたということは、綺礼本人も分かっていない、本当の『私』が叶えたい願望があるということでしょう。
綺礼は同時に「今の自分は、本当の自分の姿ではない」と漠然と感じていました。本当の自分の姿は、父をはじめ周りの人間が賞賛してくれているエリート代行者「言峰 綺礼」とは違う気がする・・・。そんな本当の『私』を周囲の人間は分かってくれるのだろうか、という不安から、この悩みを周囲に打ち明けることすらできなかった綺礼。
綺礼だけではありません。現実の世界の私たちも日々「自分探し」をしています。
今の自分は本当の自分とは違う気がする。でもそれが何なのか、よく分からないから不安・・・。こういう迷いを現代人は心の奥底に抱えているのではないでしょうか。
女子会でよく聞かれる「あの人は私のことを分かってくれない!(T△T)」という恋愛のお悩みも、自分にすら分からない本当の『私』が、他人に分かるはずがありませんから、悲しいことですが、当然といえば当然なのかも・・・?
そして何より、私たち自身が、本当の『私』を分からなければ、その『私』が幸せになる方法も分からないですよね。
仏教には、本当の『私』とは何か?ということが、はっきりと教えられています。
また「その女を求めるのと、汝自身を求めるのと、いずれが大事であろうか」とお釈迦様がおっしゃったように、本当の『私』を知ることは、私たちが本当に幸せな毎日を送るためにとても大事なことだから、早くはっきりさせましょう、と仏教では説かれています。
仏教を学べば、代行者になって命懸けのお仕事をしなくても、本当の『私』がはっきりする訳です♪(*^▽^*)
では、仏教からみた本当の『私』とは、どんな私なのか?
そんな大事なことなら“問わねばなるまい・・・!“
という訳で、
迷える青年、言峰 綺礼が本当の『私』探しをする姿を追いながら、引き続き、本当の『私』について、仏教の視点からみつめていきたいと思います。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました(*´∀`)♪