「おそ松さん」を特集した3月10日発売の「アニメージュ」4月号が、36年ぶりに重版となった2月号に続き、売り切れ続出。
出版業界にも影響をもたらしている、大人気アニメ「おそ松さん」から学べる人間の心について、今回もお伝えしていきます。
※シリーズ第1回はこちら↓(この記事だけでも読めます)
[blogcard url=”https://20buddhism.net/about-fujoshi-goukai/”]ドラゴンボールのピッコロ役として有名な大物声優、古川登志夫さんのゲスト起用や、視聴者の予想を上回る超展開で話題となった18話「逆襲のイヤミ」。
今回はこのエピソードから前回に引き続き、「欲」の本質についてお伝えしていきます。
「主役になりたい」心が引き起こした凄惨なバトルロワイヤル
昭和時代に放送された「おそ松くん」ではメインキャラクターだったのに、今の「おそ松さん」ではすっかり出番が少なくなってしまったイヤミ。
自身の活躍の機会を奪われたイヤミは
「人気・性格・性癖・学歴・離婚歴これ関係無し。勝てば即座に来週から主役」
というカーレース“イヤミカート”を開催します。
こちらのピクシブ百科辞典さんに詳細な説明がありますが、簡単にいうと「1位になれば来週からずっと主役」というカーレースが開催されるお話です。
イヤミカートには、今まで「おそ松さん」に出てきたあらゆるキャラクターが登場。来週から主役になるため熱いカーチェイスを繰り広げる!・・・だったはずが、レースは血で血を洗う殺し合いに変貌します。
まず長男、おそ松は5人の弟たちに裏切られ袋叩きにされ死亡。
チョロ松「ハッハー!これで一番のクズは死んだー!」
トド松「ナイス判断!あんなのいたら何されるか分かんないし♪」
血も涙もない発言をする弟たち。これはひどい。
続いて一松が兄カラ松を攻撃、崖から転落死させます。邪魔な兄2人を排除して一安心する弟たち。
しかしそこへ、背後から鬼のような形相をした女が現れます。その女はなんと、いつもはとっても可愛いヒロイン、トト子ちゃん!
トト子ちゃんは普段の姿から想像もできない、恐ろしい化け物のような形相で兄弟たちに襲いかかります。
トト子「人気が欲しいんじゃあ!!出番じゃあーーー!!主役主役ぅーーーー!!!」
チョロ松「まずい!!完全に悪魔だよ!!!」
トト子「アーヒャヒャヒャヒャ!!!死にさらせえええええええ!!!!」
放送禁止用語を叫びながらチョロ松を始末するトト子ちゃん。命の危険を感じた一松が、全裸を披露してトト子ちゃんに鼻血を吹かせ、自爆させます。
しかし死闘の末、結局十四松以外の兄弟たちは全員死亡。
そしてレースの主催者、イヤミはある結論にたどり着きます・・・
「ミーは気付いたザンス・・・ミーが主役なら…ミーのアニメになるなら…他の人間は必要ないと…つまり皆殺しザンス!!」
イヤミはなんと原子分解光線で世界を破壊し、人類は滅亡(!)します。
しかし死んだと思われていたおそ松が実は生きていて、イヤミの前に現れました。
全てが滅んだ世界で暴露されたおそ松のホンネ
おそ松とイヤミだけが生き残った世界。
他に誰も聞く者がいないのを良いことに、おそ松の恐ろしい本音が炸裂します。
「お前ずるいよ、こんなの使ってよ!
弟たちまで殺しやがってさ…
…ナイス!!!
だって後はお前さえ殺れば俺が主役をキープでしょ~!
ははは、みんな倒すの面倒だと思ってたんだ~♪ちょうど良かったぁ~★」
弟も弟なら、兄も兄!!
自分が主役になるためなら弟たちの命なんてどうでもいいとおそ松は暴露。名前通りの「おそまつ」っぷりを発揮します。
そして全てが滅んだ世界でおそ松とイヤミは凄まじい戦いを繰り広げ、もはや原型をとどめない酷い有様でゴール目前へ。
やっぱり「欲」の本質がよ~く分かるアニメ「おそ松さん」
この「逆襲のイヤミ」や前回ご紹介した「トド松と5人の悪魔」を見ているとよ~く分かりますが、欲の心の本質は「我利我利」だと仏教では教えられています。
「我利我利」とは「我=私」だけが、「利=利益」を得ようとするという意味で、自分さえよければ他人はどうなってもよいという心。
「逆襲のイヤミ」では自分だけが主役になりたい!という「欲」の心を満たすために、六つ子やイヤミたちが血眼になって自分以外の人間を消し去ろうとします。
そもそも「カーレース」なので競争相手を殺す必要はないのですが、「来週から最終回まで自分が主役になれる」となると、可愛いヒロインのトト子ちゃんまで普段の可愛い姿はどこかへ吹き飛んでしまい、「自分さえよければ」の本性が丸出しの鬼の姿になっていました。
「自分が主役になれるなら、他の人間は友達だろうが、兄だろうが殺してしまえ」という我利我利な心が全開だったおそ松たちですが、こういう心は誰もが持っていると仏教では教えられています。
そういえばこの「イヤミの逆襲」の顛末を見ていると、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という小説を思いだします。皆さんも小説を読まれたことがあるではないでしょうか。
お釈迦さまが血の池地獄で苦しむかつての大盗賊・カンダタを助けられようと、娑婆にいたときにカンダタが一匹のクモを殺さずに助けたことを縁とされ、クモを手に取られて糸を血の池地獄にその糸を垂らされました。
娑婆で犯した悪業の罪科に悶え苦しむカンダタは、己の頭上に一筋のクモの糸を見つけます。
溺れる者は藁をもつかむの心理で思わずクモの糸に飛びついたところ、極楽のクモの糸は一向に切れそうにありません。
これはシメタと思った彼は、スルスルとクモの糸を登りはじめます。
しかし自分以外の、何十何百の罪人たちも、後からアリの行列のように登ってきました。
「自分一人でも危ないと思っているのにあんなに大勢の者共がすがれば糸が切れ、元の地獄へ舞い戻らねばならない。今のうちになんとかせねば・・・」
カンダタは足の指でクモの糸をはさみ、振りながら大声で怒鳴りました。
「コラ!お前ら一体誰の許しを得て登ってきたのだ、このクモの糸はオレ一人のものだ!降りろ降りろ」
すると下の罪人たちは悲鳴とともに地獄へと吸い込まれていきました。
ざまあみろ、これでこの糸はワシのものだと思ったその時、カンダタの握っていたすぐ上で、プツリと糸は切れ、彼もまた、血の池地獄に沈んでいきました。
お釈迦さまは、この一部始終をご覧になられて、
「自分さえ助かれば他人はどうでもいいというカンダタの無慈悲な心が、またしても彼を血の池地獄に堕としたか。助かる縁手がかりのない男だ」
と深いため息をつかれて、再び散歩のみ足を運ばれました。
これが「蜘蛛の糸」のあらすじです。何だかイヤミカートのおそ松たちが、カンダタに見えてきませんか?
この作品は児童文学なのですが、大人が読んでもなかなか考えさせられる内容です。
皆さんは主役になりたさから、周囲の人を消し去ろうとはしないと思いますが、もし地獄のような状況で、自分一人が助かるチャンスが来たら、周囲の人間を邪魔に思ってしまうのではないでしょうか。
さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし(歎異抄)
縁さえ来れば、欲を満たすためにどんなことでもしてしまう。悲しいかな、これが私たち人間の本性なのですね。
みんな、欲に殺される
さて「イヤミカート」も最終局面。おそ松かイヤミどちらかがゴールを決めるかと思いきや、死んだはずの他のキャラクターたちが、主役になりたい執念により、ゾンビのように復活します。
しかしオノやらナタやらで互いに互いを切り裂き合い、最期に本音を吐きながら倒れていきます…
レース実況「地獄のような絵面。しかもこの中から新たな主役が生まれるかと思うとさらに地獄です」
トト子「ゆ、有名に・・・チヤホヤされたい!!」
おそ松「モテ・・・たいっ!」
カラ松「モテたいいいい!」
チョロ松「認められたいっ!」
トド松「注目されたいっ!!」
一松「ほめられたい!!!」
みんな名誉欲を満たしたい一心で凄惨な戦いを繰り広げ、欲のために倒れていったのでした。
「認められたい」
「注目されたい」
「ほめられたい」
こういう「名誉欲」は誰もが毎日のように思っていることでしょう。
でもその心の正体は「私だけが」認められたい、注目されたい・・・という我利我利の心。そしてその心は我が身も滅ぼすということが「逆襲のイヤミ」では生々しく描かれていました。
朝から晩まで名誉欲に振り回され一生はあっという間。欲に殺されるのは、おそ松たちだけではない。私たちの姿かもしれません。そしてそんな実態を見抜いた上で、私たちが幸せに生きられる道を教えられているのが仏教です。
私たちの姿を徹底的に見つめる仏教哲学から、次回は「欲」の心を少し違った角度から見ていきたいと思います。